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2010年5月11日 (火)

ああ、許すまじ原爆 核不拡散条約NPT

Photo 長崎で被爆した谷口稜曄すみてるさん(81)は、8月9日(昭和20年)爆心地から1.8キロのところを自転車で走っていて、被爆して、1年8ヶ月間、はらばいで身動きができなかったこと、現在まで手術を繰り返したを、英語で語られた。

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谷口さんは、英語での代読が続いている間、写真を掲げて微動だにしなかった。12分間続いた代読が終わると、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」と、しめくくると、会場を埋めた300人が立ち上がり、しばらくは拍手が鳴り止まなかった。

谷口さんにとって、これが最後の渡米だろう。成田からニューヨークまでの半日の旅行は、背中のケロイドと手術痕が多数あり、皮膚は薄く破れやすいので、機内で背中を普通の人のようにもたせかけることはできない。高齢では体力的にもキツイが、躊躇はなかった。半世紀にわたって語り続けた訴えをしようとしていたからだ。

Photo_2 写真が少し離れると、被爆のむごさが遠のく。しかし、NPT核不拡散条約に集まる人たち、原爆の恐ろしさを知っているはずだが、それは頭で理解しているだけだから、現実の絵を見て、被爆者の姿をみてそのすごさを始めて知ったのだろう。

谷口さんのスピーチ12分終わったあと、全員が立ち上がって拍手が鳴り止まなかったというのも、彼ら300人の良心だ。

核不拡散といいながら、出席者自身、原爆の悲惨の現実を見ていないから、案外空論で討論しているかもしれない。自分の上に原爆を落とされたことが誰もないから、アーだ、コーだ、と言えるのであった、こんな悲惨な原爆があっていいはずがない。そんなこと、人類が死滅するのに十分以上貯蔵されているアメリカはとっくにわかっている。議論はいつも、自分のことこには落ちないという仮定で話されている。

Photo_3 日本は実行可能な策として、こんなことを提案した。「核を持たないl国へ核を持つ国は核で攻撃しない」という「消極的安全保障」を民主党から外務副大臣福山哲郎が提案したが、それは他の国から、あまりにご都合主義だと一蹴された。

確か、アメリカという核の傘の下にいる日本は、フィリピンあたりのアメリカに保護されていない国からしたら、日本の甘さを指摘される。日本は、お坊ちゃんに見えるだろうね。

03 しかし、アメリカとロシアが核を持ちながら、不拡散と主張する。この土俵に乗ってこない国は北朝鮮、イラン、インド、パキスタンイスラエル・・・、彼らは核を持てば強気外交ができると思っている。今、世界は戦国時代だ。それが、国際外交の道理らしい。それを人間の知恵で封じ込めるには、何が有効か。

日本の役割は、被爆国、唯一の被爆国である強みは、どう発Photo_5揮したらいいのか。それは被爆の悲惨さ、被爆の悲しさ、被爆の愚かさを知らせるしかないのではないか。被爆の経験がない国の指導者ほど、核不拡散を否定している。

今後も持ち続けるその理由を、中国がうまく「ごもっともに」言いつくろっている。その言い方をいうと、うまく誰からも攻められない。その見本をみせている。外交官はこんな抗弁をするんだ。バカじゃないの。中国は何億人の国民が被爆死んだらいいのだろうか。

他国に平和を求め、核不拡散をいいながら、段々日本人は「ああ、許すまじ原爆を」の歌なんか、忘れてしまったもんね。戦争に負けて、焼土が目の前に広がっていた時期には、この歌を1番だけでも歌うと、多くの人は、胸にこみ上げ、涙が出た。それが、どうだ。もう多くの人が原爆で広島、長崎に落ちたことすら思い出さない。一度聴いて見てください

   原爆許すまじ

ふるさとの街やかれ 身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
  今は白い花咲く ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を  われらの街に
ふるさとの海荒れて 黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を  われらの海に
ふるさとの空重く 黒き雲今日も大地おおい
  今は空に陽もささず ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を  われらの空に

はらからのたえまなき 労働にきずきあぐ富と 今はすべてついえ去らん ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を  世界の上に

私の小学生の頃、先生たちは、この子達が戦争をしない子育ってもらいたかったのでしょうね、授業の一環として、原爆の映画をみせ、戦争の悲惨さを植えつけようと懸命だった。生徒も、映画を見て涙を流し、その悲惨さを刻みつけた。

「原爆の子」音羽信子が主演、監督は今の健在の新藤兼人だったんだ。昭和27年か。昭和は遠くになりにけり。戦争が終わって十年も経たない間は、日本人も戦争の愚かさを知っていた。戦争がデジタルになると、怖さがわからなくなるかも。

映画 - 原爆の子 : 1952年
キャスト(役名) - 原爆の子
乙羽信子  (石川孝子)
細川ちか子(母せつ)
清水将夫  (父利明)
斎藤美和 (森川夏江)
下元 勉 (夏江の夫)
スタッフ
演出 新藤兼人
製作 吉村公三郎
原作 長田新篇
脚本 新藤兼人

長崎被爆で映画になったのが、「長崎大の永井博士の兄と妹」 が育っていく話、これに歌が「長崎の鐘」(作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎)が大ヒットした。原爆を憎む日本人の意思がそこに示されていた。ただ、アメリカに逆らえないので、主語のはっきりしない言い方で「ああ、許すまじ」とか、「三たびゆるすまじ」と遠慮がちであった。

    長崎の鐘
1 こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ
  うねりの波の人の世に
  はかなく生きる野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
  別れてひとり旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの
  鎖に白きわが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

 

昭和25年(1950)『長崎の鐘』は、新藤兼人らの脚本により松竹で映画化されました。

長崎で被爆した谷口さんの訴えが少しでも汲み取れたか、私が協力できるのは、この程度でお恥ずかしいかぎりだが、戦争の悲惨さ、原爆の悲惨さはあとから悔やんでも地球が滅び、人類が死に絶えてもいいのだろうか。関心がないと、人類はそういう末路を辿るだろうか。

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