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2010年5月19日 (水)

朝鮮統治と三・一独立運動と親日派

Img_2262Img_2263親日派の独立闘士の詩人崔南善チェナムソン、文筆家李 光洙イ・グァンス二人を知っている人は、相当朝鮮の近代史にくわしい。

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Imagescavz28hm_2 1919年、高宗の崩御したが、日本人の毒殺説を信ずる朝鮮人が多く、騒然とした中に独立宣言が採択された。その行動が反日に火をつけた。(NHKのシリーズ日本と朝鮮半島「三・一独立運動と親日派」参考)

「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする」独立宣言

朝鮮人の主張はそれほど激しいものではなかったが、日本は朝鮮に対して武断統治をおこない、憲兵警察で人民を締めつけていたから、日本の統治に逆らう行動と見えたのだろう。独立宣言の起草文を書いたのが崔南善チェナムソンを含む4000人が逮捕された。3・1独立運動は鎮圧された。

崔南善チェナムソンは牢に入れられたが、李 光洙イ・グァンスら多くの独立運動家は朝鮮から逃げだし、上海で臨時朝鮮独立政府を樹立した。そこでは、李 光洙らは第一次世界大戦後の講和会議に期待して代表をおくり、日本の武断統治の不当性を訴えようとした。アメリカウイルソン大統領の開明的な方針に期待したが、国際連盟の設立に列国の協調を第一に考え、日本の協力を重んじて、朝鮮の訴えには目を向けない現実を知った。

これ以後、上海の朝鮮臨時政府の方針が分裂状態になった。武闘派と外交重視派、(朝鮮の)実力養成派が、お互い意見対立して収拾がつかなくなった。李 光洙の意見は、朝鮮の実力を養成するという意見であった。それを文章にして雑誌で発表していた。

その記事を読んだ京城日報の社長阿部充家(日本では国民新聞記者だった)が斎藤朝鮮総督に書簡を送って、対日協力者を養成することを進言した。その第一候補が李 光洙イ・グァンスであった。また、獄中にいる独立運動家崔南善チェナムソンを解放してやることのメリットを説明した。彼らを親日朝鮮人のオピニオンリーダーとすることを提案した。阿部充家の斎藤朝鮮総督への手紙は60通にも上る。

Img_2264 阿部充家 (あべみついえ)生没年  1862-1936.1.2死去
文久2(1862).熊本生まれ。同志社に学び、1878.熊本新聞社長。1891民友社入社。国民新聞記者として活動、同編集局長を2回務める。1911国民新聞社副社長、のち顧問。1915~18京城日報社長。朝鮮事情通として、寺内正毅・斎藤実両総督に助言を行う。1929国民新聞社退社。

3・1独立運動の鎮圧で、日本の武断統治の残酷さは秘密にしょりしたが、外国に知られるところとなった。それがますます日本は処理に困っていた。

3・1独立運動の余波ともいう事件が続いた。も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後、放火焼殺され、他にも15村落317戸が延焼し、39人が殺された。

Photo 朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎の日記にも、その事件の詳細が伝えられたと記録されている。朝鮮軍司令官(大正7年(1918年)7月24日 - 大正9年(1920年)8月16日)

朝鮮人の報道は禁じていたが、現地をアメリカ人記者が歩いて確認したのは、教会建物の近くに放置されている若い男が焼死体ガ横たわっていた。他に村をくまなく歩いて見たことを報道した。世界中に知れ渡った。

インドの植民地政策で手を焼いた経験のあるイギリスの当局者ジョージ・カーソン英国外相代理に駐英大使珍田捨巳が打開策を持ちた。真の原因は、朝鮮における朝鮮の日本化政策にある。自治権を朝鮮人にも与え、現地人を政治に参加させるのがいい。今私の手元にある記録を公表したら、文明社会は騒然とすることは間違いない。

カーソンは、言論や集会の自由を認め、リベラルな制度の採用を勧めた。インドで手を焼いた経験から、独立を求めて運動が激しくなると、民衆に一定の自活を認め、政策の転換が必要である、と日本に政策変更を勧めた。

5 中国大陸に於いても、五・四運動が盛んになり、抗日活動が盛んになっていた。国際情勢も日本に厳しくなっていた。国際情勢も日本には不利になって、原敬はらさとし内閣になり、武断統治から文化政治に方針を変え。朝鮮総督も斉藤実に代わった。

朝鮮総督斉藤実も、武断統治にはムリがあると判断して、憲兵警察から普通警察にした。文化の発達と民間の充実、という文化政治を志した。
①学校制度の整備
②朝鮮語新聞の発行、出版を認める。
③対日協力者の育成。
最も重要な要は、親日人物の育成である。経済、教育、宗教分野では対日協力者、協力団体を増やすことである。これらによって、第二の三・一独立運動を防ぎ、武断統治の不満を和らげたいと考えた。

667 上海で独立活動を続けていた李 光洙イ・グァンスは、パリ講和会議も朝鮮の独立運動に目を向けてくれない、他国の助けを待つのは間違いであると、朝鮮へ帰って活動しようと戻った。インドではガンジーが合法的に独立運動をしている。それを見て、上海で独立活動していることは、日本に民族を委ねていると同じではないか。民族の独立の真の道は何か。それは、民族自らの力を養うことだ、と李 光洙イ・グァンスは朝鮮の経済発展、それらの充実後に独立しようと考えた。1931年、朝鮮へ戻った。

陰に陽に日本側は、彼を親日発言しやすい立場になるよう配慮していた。東亜日報に入り、論説を書く立場になっている。

朝鮮総督府は、朝鮮経済の発展のため、インフラ投資をしている。水路水門の建設で、江景に物流の拠点をつくった。この水門で船が町の中心まで入っていき物品の運搬が便利になった。農業技術が進み、産業増産にも力が入れられた。米の品種改良が行なわれ、収穫量が上がった。潅漑施設の改良。水田面積の拡充が行なわれた。日本による近代化が行なわれ、李 光洙イ・グァンスはそれを認め、積極的に推進する立場をとった。

対日協力者にした代表人物に、阿部充家のねらい通りの存在になっていった。と考えられる。李 光洙は、朝鮮が独立していくには日本の力を利用して伸びる以外には道があるとは考え難いと思っていた。それが、1945年戦争が終わってから、朝鮮での彼の評価は「親日人物」としてつらい立場に追いやられた。

崔南善チェナムソンは、総督府の配慮で釈放され、満州国大学の教授になった。その後は、日本の立場を擁護した立場で発言をしたと李 光洙と同じく、「親日人物」として朝鮮韓国では評価されている。

斉藤実は朝鮮統治は、武断統治から文化統治にしていくことを日本本土へ説明にいく。しかし、国内の雰囲気は、そんな生ぬるい方針では、朝鮮の独立運動は盛んになり、制御できなくなると反発を買った。斉藤実は、立案した朝鮮統治計画は却下されたようなものであった。失望のあまり・・・(これは私の感想)、朝鮮総督を辞任する。その後に来たのは、宇垣一成である。文化統治の流れは否定できなまま進んでいった。

Photo_3 宇垣一成(在任:1931年/昭和6年 - 1936年/昭和11年 朝鮮総督時代に朝鮮の農村振興と工鉱併進政策が成果を上げ、住民の生活が向上したことから、歴代総督のなかで「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と高く評価されていた。

朝鮮統治は、日本の側から見れば、順当に行っていた。日中戦争の進行と共に、朝鮮は日本の兵站基地化されて、戦争に巻き込まれていく。1945年8月15日、日本が負けたとわかると、朝鮮人たちの喜びようは、爆発したようだった。巧に朝鮮人が抑えこまれていたことの証明かもしれない。

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