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2010年4月26日 (月)

どん底でこそ笑え 西原 理恵子

4漫画家西原 理恵子(さいばら りえこ、1964年11月1日 - )の「こころの遺伝子」を見た。

女の強さ、彼女の生き様の中にある遺伝子、男を踏み台にして生きていると思わざるをえなかった。彼女自身、思っていないだろうが、男、男以上だ。生きるってことは、そういうことだろうが。

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684 685 このマンガは、再び夫鴨志田 穣がアルコール中毒を治して彼女のところへ戻ってくるシーン。それをマンガがにした。このあと、内臓にガンができていて、長くもって半年だと宣告された。二人で、カンボジアへ旅行にいく。ここで、出会ったアジアの子供の笑いの写真を多く写している。シアワセはこの短い期間だけだった。

690最初に出会ったのは、1996年に旅行体験レポ漫画『鳥頭紀行』である。通訳が急遽キャンセルになって、代理で現れたのがフォトジャーナリスト鴨志田。

彼女はゲーム場で何百万も賭けて、その「カッコいい自分」を彼に見せてやろう、と思ったそうだ。ところが、彼は全然面白くない顔して見ていた。

701702 「戦場が一番のギャンブルだ。みんな命をかけているのだから」彼は、私西原に「ボクと一緒に行って戦場を見てみないか」と誘ってくれた。ソレを聞いた途端、ダイスもカードも、色あせてつまらないものに見えた。「ソレ、行く、行く」と、アッ問い間のことでした。

ギャグマンガばかり描いている私は、めったのことで笑わない自分であるとわかっていた。ところが、鴨志田は、不思議なほど、すごく私を笑わせるのがウマかった。(つまり、ホレてしまていたのだろう。)

戦場でも、アジアの人は泣くことも、笑うこともとても上手だった。どんな場所でもよく笑った。私も日向で、彼らと一緒に笑っていた。アジアの人は、人生70年も80年も何もいいことなかったのに、笑って迎えてくれる。子供は特によく笑ってくれた、鴨志田は好んで子供を写した。笑いは、理由がなく、西原の体に入っていった。

738それまでのマンガに変化が起こってきた。人が振り返ってくれるのは、「面白い」か、「役に立つ」か、どちらかだ。そうじゃないと、人は作品を見てくれない。説教もだめ。悲惨なシーンでも、人は見やしない。言いたいことを「笑い」に包んで出そうよ、というのが、西原と鴨志田との間の「合言葉」だった。西原32歳で鴨志田と結婚した。

このまま順調に行けばよかったが、西原は漫画家として成功したが、鴨志田の仕事はうまく行かなかった。その格差がしだいに酒に溺れるようになった。

鴨志田の親は酒乱で酒に溺れて、早くに死んでいる。本人の意思とは違う因子が働いてか、妻を殴る追いかける、暴力を振るう。西原は意を決して鴨志田を追い出した。離婚が成立。彼は、酒が覚めれば後悔の日々。更生施設、病院へはいって、必死に断酒をする。これが何年続くのか、さっと聞いただけではわからないが、西原が会いに行ったときは、昔の穏やかでやさしい鴨志田になっていた。

彼女と同居を始めた。しかし、彼の体にはガンが末期状態になっていた。それをわかって、カンボジアの旅をしている。西原はそれをマンガにしている。

最初、貧困のサイクルから抜け出して、東京へ出て美大の予備校へいく。成績が最低でとても合格できるとは思えないから、絵を売り込みに行って、傍らアルバイトで接客業で食いつないで、いく。

西原 理恵子(さいばら りえこ、1964年11月1日 - ):日本の漫画家。718 高知県出身。漁師の家で長女として生まれる。兄弟は兄がひとり。3歳の時にアルコール依存症の実父と死に別れる。母は再婚し、義父に溺愛されて育つ。
私立土佐女子高等学校在学中に飲酒によって退学処分を受け、その処分を巡り学校側を訴える。その訴訟の取材に来たフリーライターの保坂展人(前社民党衆院議員)と知り合う。

723 19歳で父の保険金100万円を持って単身上京。美大を目指すが、予備校のテストで最下位を取る。この頃からカットを描いて売り込みを始める。その後、大検に合格、1年間立川美術学院に通った後、武蔵野美術大学に入学したが、在学中からミニスカパブでホステスのアルバイトをしながら成人雑誌のカットを描いていた。作品を目にした小学館の編集者にスカウトされ、1988年『ちくろ幼稚園』(『週刊ヤングサンデー』)でデビュー。

以後はパチンコ雑誌、麻雀漫画誌、漫画週刊誌などにギャンブルや、旅行体験レポートなど、実体験に基づいたギャグ漫画作品を描く。ギャンブルマンガを描くということで、ギャンブルに手を出してギャンブル依存症となり、デビューから10年で約5000万円を失う。西原曰く「私が負ければ負けるほど読者の受けがいい」。

742 1996年に旅行体験レポ漫画『鳥頭紀行』で知り合ったフォトジャーナリスト鴨志田穣と結婚。2児をもうけるも、鴨志田のアルコール依存症や西原の多忙によるすれ違いなどが原因で2003年に離婚。ただその後も絶縁したわけではなく頻繁に会っており、西原のサポートの元、鴨志田はアルコール依存症を克服、『毎日かあさん』(毎日新聞紙上の連載)2006年8月掲載分にて復縁を 691 匂わせ、婚姻届を出さない事実婚の形で同居を再開した。

西原は、これら2人の過程を『毎日かあさん』の中に物語として組み込んでいたが、同居再開の時点で鴨志田は末期の腎癌であり、同居再開の半年後の2007年3月20日に死去。葬儀では西原は元妻として喪主を務めた。現在、西原はテレビ番組などで夫と過ごした闘病生活に関してコメントしている。Wikipedia引用

西原理恵子は
710「貧しさは連鎖する
ループを断ち切れないまま
親と同じものを
子供も背負っていく。」この痛みの追いかけられて、必死で逃げようとする人生だった。その過程がマンガを描くことであり、ギャンブルであった。そして、愛し合ってもいるが、男を食いつぶしている。完全に胃袋の中に納まってしまっている。

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コメント

すごい人
真実は人心を打つ

投稿: | 2011年1月16日 (日) 05時44分

この人の漫画を何冊か持っている
昔はただただ面白かった
今は、強すぎて怖いと思う

投稿: | 2016年12月 3日 (土) 23時15分

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