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2010年4月22日 (木)

語らざれば、憂いなきに似たり 五木寛之

1578 「徹子の部屋」で黒柳徹子が語っていた。「(直木賞の受賞に際して)インタビューしたときには、五木寛之さんは、ハンサムでとても陰のある方とは思わなかった」というと、五木寛之は「そんな何十年も昔のことは言わないでください」とテレながら、彼は北朝鮮の平壌から帰国するときの阿鼻叫喚の世界を見たこと、終戦の経験から人生がまるで変ったしまったこと、それを「語らざれば、憂いなきに似たり」という言葉でまとめていた。

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自身のことだけでなく、多くの人は引き上げが大変困難なことで、「普通見るべきことでないその時間をErase(イレーズ消す)している。だから、12歳から15歳の記憶がない。」五木は中学1年で終戦になった。

引揚げに関して、お上が巧妙に言う言葉を多くの人々は信じこまされた。まことしやかに流布されたのは「(一般市民は)現地の治安は維持されているから、軽挙妄動せず、そのまま現地に留まれ」という指示だった。一般民間(日本)人は、その言葉を信じた。しかし、その間に、軍人とお金持ちは北朝鮮の平壌から家財道具を山のように積み上げ帰って行った。気がついてみると、五木寛之の家族は残された。日本の敗戦で、今まで日本軍の言うとおり教えていた教師の五木寛之の父は、力が抜けたように呆然としていた、という。

「知らしむべからず、寄らしむべし」これが、江戸時代以前からある為政者の政治哲学だと、言われている。

政府の方針は、急に民間人が日本に帰国しては内地が混乱する。住まいもなく、食糧もないから、外地の日本人は残留させる方針を内閣で決めていた。だから、終戦後すぐには帰ってくることを恐れていた。上層部以外には、帰国させない方針であった。

中国、満州、朝鮮へ移住していった日本人は、ヒドイ目にあった。政府を信じるとひどい目あう、という印象を与えた。今でも、政府、お上のいうことは信用ならないと思う人は多い。

食べ物がないから、幼児の死亡は極めて多く、食べ物がある現地の人に子供を置いて帰国する人が何万人といると、五木寛之は語っていた。連れて帰れば、子供が死ぬから置いていくのだと。そういう自分の過去を知らず育っている子が今も満州はもちろん、朝鮮にも何千、何万人もいる、と語っていた。五木寛之も黒柳徹子も同じ終戦の体験を持っているので、共感できるようだ。

歴史の表には出てこないが、一人一人は笑顔で暮らしていても、心の中には、心に傷を持っている。「語らざれば、憂いなきに似たり」と、繰り返した。

1580 きょうは彼の著書「親鸞」の話をしにきたのだが、生い立ちから始まって、彼は「普段は、個人的な話はしないのだが、徹子さんと話をすると、炬燵にはいっているような気分で、つい話してしまう」と、生い立ちの一番記憶がない時代の話をしていた。

直木賞の受賞で黒柳徹子が、その際、「ごきげんよう」と彼に声をかけたのだそうだ。すると、「ボク、ごきげんよう、と声掛けてもらいたかったんだ。よほど高貴な身分の人かと思って」と黒柳徹子に好感を抱いたらしい。「黒柳さん、可愛らしかったね」「芸能界に長くいると、可愛くなくなるみたいですね」と切り替えしていた。

冒頭の「ハンサムだったから、陰のある方とは思わなかった」につながる。「そういう過去があるとは、ユメにも思いませんでした」と徹子さん。

「どうして、親鸞を書くことになったのですか」と聞くと、五木寛之は北陸の石川(奥さんの実家と聞いている)は真宗王国だという。石川を中心に北陸、安芸広島、三河東海が浄土真宗の盛んなところだという。親鸞というより蓮如とつながりのある場所のようだ。五木寛之は著書に「蓮如」がある。蓮如は明るく、楽しく書いているうちに「親鸞」という森へ踏み込んでしまった。今、二、三歩入って、今迷いかけている。「これが、自分の気持ちです。」

ベストセラーで、62万部売れたという。出版不況で今、1万部売れたら、ヒットとはいわないにしても、売れた方になる。正規価格で2000部売れたら、トントンになる。「トットちゃん」の黒柳徹子に「ヒットしていますね」と言われて、「(トットちゃんとは)ケタが違います」と困った様子

「何で売れるのでしょうか」と、聞かれて「生き悩んでいる人が多いからでしょう。胸にモヤモヤしたものがつッかえを晴らしたのでしょうか。」現代人は、心の中にそれぞれが抱えているものがいっぱいある。それが、親鸞の時代と、似ているのでしょう。

平安末期から鎌倉時代に変わっていく親鸞の青年時代は、今の時代と重なっている。貧しい人が多かった。自殺が多かった。道端には行き倒れの人ガゴロゴロしていた。賀茂の河原には、死体が山積みされて、腐ってに悪臭がプンプンしていた。袖で口や鼻を押さえていないと、耐え難いほどだった。大雨が降って一挙に死体が流されてしまうと、町の人はほっとした。袖で鼻を塞ぐことなく歩けるようになった、と言う話である。

紫式部、清少納言などが描いた優雅な平安時代から、鎌倉武家の時代へ移る転換期は、京都の町はすさみきっていた。犯罪は多くなり、餓死者は町に転がっていたし、自殺者は多くなった。自分の親が死にかけると、賀茂川の河原へ運んで握り飯と汁を置いて放置した。死ぬ前に野犬に食われるか、いや野犬を人間が食う。今では、京都に都を想像できないが。

このような時代を生きた青年の話として、親鸞を描いた。比叡山を見ると、八角九重の塔が立っていた。スカイツリーほどは高くはないが、大きな塔が立っていた。これは落雷で焼け落ちたが異様に大きなものが立っていた。その頃を想像しながら書き続けて、楽しかった。

きざな言い方をすれば、「(『親鸞」を書いたのは)他力の風に吹かれて」自分が運ばれてきた。物書きにはそういうことがある。「他力」は「仏の導き」だが、「他力本願」は「自分は何も努力しないでいい」と誤解する人は少なくなったように感じる。

五木寛之が仏教に触れたのは、すぐ下の弟が死んで父が正信念仏偈の念仏を唱えていたの聞いて、それを覚え「キミョウムリョウジュニョラ(帰命無量寿如来)  南無不可思議光ナムフカシギ」と唱えながら、5歳の私五木は踊っていたという。「明るい子だったのですね」と黒柳徹子がいうと「戦前は陽気だったのですが、戦後は暗い子だった」

親鸞の一生ではなく、30代半ばまでしか書いていないが、「このあとは?」と黒柳徹子が聞くと、「オマエ、これを書け、書かなきゃ許さないゾと言われたら」常に背中を押されて書いていますから、自分の方から進んで計画的にやる人間ではないですから、「鼻ズラを引っ張りまわされれば『やります。やります。おっしゃる通りにします。』と言ってしまいます」

五木寛之にして、このテイタラク。凡人は〆きりというリミットで仕事をするものらしい。私にも、そういう〆きりのある仕事を与ええほしいものだ。そうでないと、はっきり言って、まとまった仕事をしない。「小人閑居して」は、まともの仕事はしない。

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コメント

五木寛之が「親鸞」新刊を無料公開

投稿: nozawa22 | 2010年6月16日 (水) 13時46分

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