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2010年2月27日 (土)

平和祈念展示資料館 独立行政法人に一言

0197_2 平和祈念展示資料館で戦争体験の語り部が、体験を語るというので、新宿の住友三角ビル48階へ聞きに出かけた。すでに語り部の方は、展示資料館へ来た人を相手に話を始めていた。

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宇都宮で訓練を受けてから、部隊ごと汽車で日本の港から中国へ。軍機密の上、夜中の行動だから、兵隊には場所の説明はなし。途中、どこを進んでいるか不明のまま。見たのは、海に魚が多く舟べりに泳いでいる記憶がある、という瞬間の場面のみだ。中国の土地をみて、ああ、ここはと気づくときは、北支の「某××」と、その地名は書いてはいけないことになっているから、内地の家族にも知らせることはできない。

抑留生活の悲劇を期待したが、ソ連の収容所でないから、ずいぶん趣が違っていた。代わりに、北支での軍事行動や軍組織について聞いた。

Photo本日の話は、抑留生活がテーマだった。
ソ連の抑留は知られているが、Sさんは、外蒙古での抑留だった。昭和20年の8月、ソ連が満州の国境から侵攻してきたという情報があり、Sさんの部隊が応援に駆け付けようと列車に乗り込み、満州国へ進んでいく。ところが、その列車の奉天を過ぎた地点で列車爆破をされた。先頭から数両が脱線転覆して、前の方は軍需品や軍用馬を載せているのだが、それらがかなり損害を受けた。兵隊は貨車の後方にのっていたから、Sさんの部隊は無事だった。

そんなわけで、ソ連軍に対抗する日本軍は遅れてしまった。そして、8月15日、列車の輸送中に、ある駅で降りて重大な放送があるから聴くようにと駅前の広場で、兵隊全員が聞いた。それで日本が戦争に負けたと知った。そこでソ連軍の指示に従って武装解除することになった。武装解除後、列車に乗せられた。北へ北へ進んでいくから、ソ連(外蒙古)へ行くのだとわかっていた。

Sさんの部隊はソ連軍ではなく、外蒙古軍の指揮下に入れられ、約1万人の軍人が外蒙古へ連行された。Sさんいわく、「私たちは運がよかった」から、シベリアの収容所でなく、ノルマもないような生活で、楽だった、という。

ソ連の収容所の生活とは、Sさんの生活は、だいぶ違っていた。作業は、外蒙古の建設資材を川の砂からセメントを作ったり、建築をしたり・・・、労働に見合うだけの食べ物がないのは、ソ連のラーゲリ(収容所)と同じだだ、これは土地の人も食糧が少ないのだから、日本人に食糧が少ないのは死かががない。北支から部隊と一緒に持ってきた食糧を食いつないできたという。

1 ソ連シベリアの収容所の日本兵はかなり死んでいるのに、Sさんの部隊では、2年間収容されている間に死んだのは一人だけ。この事実を聞く限り、恵まれた収容所生活だ。それでも逃亡する人はいた。逃亡すると言っても、この周りには人家はない。結局見つかって、銃殺されてしまった。これは、外蒙古といえども、ソ連の収容所と同じ。外蒙古は日本と併合された朝鮮と同じ立場で、ソ連の植民地だったから、その意味で規制が緩やかだったのだろう。

ソ連のラーゲリのような思想教育もないし、ノルマも厳しくなかった。捕虜の帰還が決まると、外蒙古の収容所から日本の兵隊は順次帰国スケジュール通り帰還できた。函館へ帰りついても、すぐ上陸できず、数日は港の外で待たされてから上陸した。日本としては、引揚者とは違うが、兵隊の帰還の一時金は、一万円が支給されたが、これでは少ないと厚生省と帰還兵ともめて、その後一万5000円になったとモノの本には書いてある。しかし、Sさんは、そういう細かいことは記憶にないようだ。

そのあと、展示物を写真に撮って、このブログで紹介したい、と相談してみると、「展示物は写真に撮ってはいけない」。「出展者の権利があるから」という理由らしいが、出展者、寄贈者の物を勝手に写真に写して、利用するひとがいるから、ともっともな理屈をつけて、この戦争と平和祈念の趣旨と反対なことを独立行政法人「平和祈念展示資料館」はやっている、そのことに気付かないのだろうか。総務省の原口大臣に言ってやろう。

出品者だって、世間にそのモノを通して、戦争の実態を知ってもらうつもりで出しているのだから、写真に撮られても困るわけではないだろう。むしろ、世間に広まることを望んでいるだろう。調べもしないで、禁止禁止で、何かいいことがあるのか。もっと、解放するべきではないか。展示物が芸術品で個人の作品なら、しかるべき方法で権利を確保するべきだが、こういう戦争の記念品は見せて、知らしめて価値が上がる。国民全体の共有物として、平和祈念の趣旨に沿うように写真は自由に写すことが、独立行政法人の趣旨にかなう。それを総務省の役人は知ってほしい。

2 出品した当事者を紹介する文章にも、以下のように
終戦3ヶ月前に満州の新京(長春)で結婚し、戦争で負傷したご主人と生まれたばかりの赤ん坊の3人でソ連軍政下を生きぬいた笹谷和子さんは、「主人が軍人だったことがわかるとソ連兵に連行されるという噂が流れ、主人のものはすべてお風呂の焚き口で燃やしました。」と述べ、昭和21年7月21日、引揚げのため新京を出発する時に服に縫いつけたり、大切に持って帰った「腕章」や「引揚時のメモ」などを寄贈してくれました。笹谷さんは、さらに続けて「当時のことを子や孫にあまり話していません。若い人たちに観ていただきたいと思います。」と述べています。100121

本日のブログも写真を付けてないと、訴える力が弱い。強行突破で、カタログからスキャンして載せてしまってもいいが、あまりに順法精神で、お役人の言うことを聞いていたら、一歩も前へ進めない。そんな気がして仕方がない。法や規則は、何のためにあるのか、と大いに疑問がわいた日だった。

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Sさんは、昭和15年に徴兵検査を受け、訓練を4か月受け、そのまま北支へ出征した。今年90歳。しかし、2時から始まった語り部講義は、2時間続いたが、立ったまま、お話をされた。滑舌の不確かな面はあったが、90歳の方の体力としては、驚異的である。

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