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2010年1月20日 (水)

幼い子を孤独にしてはいけない

昭和21年、継母となる母と始めてで会った。昔の話も、これだけ古いと、悲しみも、涙も、すっかり枯れて他人の話みたいにできる。

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何の用か、父親に会いに小5の兄と出かけた。中仙道沿いの本町に行くと、道の両側には柳が並木になっていた。昼過ぎていたが、人通りのない静かな町だった。しもた屋風の二階建ての則武という家の前に立って、兄は家の人に声をかけた。田舎の少年が「父いますか」とはいえなかったから「トウチャン、いますか?」とでも聞いただろう。

本町通りは、昔からの宿場町の家並で、江戸時代は宿屋だらけだった。ここの家も、その名残の古い家だった。下宿にはもって来い家だった。そこに父がいるはずだった。女性と一緒だという情報はあった。

父は不在であった。代わりに女性が下りてきて、父の不在を告げた。小学1年の私にも、この人が父と一緒に住んでいる女性だとわかった。

始めて会う子供達に、甘いものが少ない時代、干し柿を私たちに一個ずつくれた。子供達を懐柔するにはいいチャンスだったろう。他人の関係だから、優しい人には見えた。

それから、私と母の葛藤の始まり昭和64年が終わるまで、続いた。継母との付き合いって、経験してみないと、わからないが、芯から信じあえることの難しさがある。

本町通りの一偶に、(岐阜県)恵那郡に卸す麦を委託されて精麦する工場と家があった。兄弟7人いたので、病身の母が死にその後は、上の兄弟何人かは新しい母と暮らし始めた。小5だった兄と私は姉(長女)が二十歳を期に結婚した家に同居することに決まった。

兄弟の大部分は、父と新しい母と一緒に暮らしたが、姉の家で姉の夫(義兄)と一緒にメシを食う時、ビシビシ注意されるし、同居の心地はいいとはいえなかった。姉もアルバイトに出たし、兄は学校が遅くなると、小学校1年の私は、今でいう「かぎっ子」状態になることが多かった。

家に帰ってもダレもいない。テレビがあるわけでもない。することもない。隣に友だちがいない。ひとりぼっちだった。これ、どうしたらいいのか、まったく孤独だ!と痛感したときだった。

本町に兄弟がいる。父がいる。新しい母がいる。それは知っていたから、「本町へ行こう」と思った。姉の家は宮町(恵比寿神社前)から本町へ歩いて行った。およそ、数百メートルの距離だが、一人で行ったことはなかった。

柳並木の本町のウチへ着いた。でも、自分チだが、自分チではない家には、格子戸があり、閉まっていた。中へ入れない。ダレも出てこないし、外の通りにも人はいない。こんな孤独は、味わったことはなかった。

小一の私は、ここの家の子にしてもらえない寂しさを感じて、しばらく佇んでいたが、また、今来た道を帰るしかなかった。

アンジェラ・アキの「15の手紙」で、大人の自分へ手紙と大人の自分からの手紙を歌っているが、小一の私の気持ちがまだ残っている。だから、ずーっと私は小学一年生のような幼い子を孤独にしてはいけないと、思ってきた。Img_0524

山本寛斎も少年時代、両親が離婚して兄弟3人孤児院で過ごした経験を語っていた。温かい家庭がない少年の心には、よその家庭の夕飯時は特に寂しい。山本寛斉の少年時代 夕暮れは嫌い

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