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2009年12月15日 (火)

中津川市 記憶の案内ボランティアⅠ

01 昭和20年代から昭和30年代初頭の(岐阜県)中津川なら、詳しいから、その辺を案内してみたい

町の中央に中仙道通りが貫いて、昔の宿の名残があちこちに残っていた。通りの家は、空襲も火災もなかったから、きっと明治以前からの建物がたくさんあって、それらの多くの家は、玄関から裏まで土間でつながっていて、大抵は庭がある家の構造になっていた。

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No Nakatsu City Who? Where? という向きにには、岐阜県の地図を見て、中津川の認識をもって、そのまた、顕微鏡で見る気持ちで中山道本町をご案内したい。

中仙道が、西(地図左)美濃坂本から右(東)馬籠へ向かいます。中津宿に入ると、枡形(道を直角に曲げる敵防御)を過ぎたところが、本町になる。枡形に入ると、江戸時代なら、宿場町の雰囲気が濃厚にしただろう。

中津川市(なかつがわし):人口82,117人(2009年10月1日) 岐阜県の南東部に位置する都市であり、東濃東部の中核都市である。岐阜市からは遠く、長野県に接するが、江戸時代尾張藩の指示を受けていた関係で、経済・交通および文化面では愛知県の影響が大きい。山地が多く、清流が市内を流れ、木曽川水系においても水の綺麗さの点では有数の地である。ウィキペディア(Wikipedia)

800pxnakatsugawacity 中津川市の中心部は、かつて中山道の宿場・中津川宿として栄えた。ここは宿場町の歴史ある家屋が軒を並べている。中津川と四ツ目川は恵那山、前山を源流とする勾配の大きな急流河川で、過去に幾度となく氾濫してきた。四ツ目川とは、四回目の氾濫を意味する説がある。宿場町(本町)は中津川駅よりも20m程、高い場所にあり、1932年(昭和7年)の四ツ目川の氾濫ににもも助かった。ウィキペディア(Wikipedia)

枡形の入口に丸三の間酒造までが下町で、曲がったトコからが横町である。小栗屋、白木屋、向いが杉本屋など、江戸時代は、宿を営んでいた。昭和も20年代には、その痕跡はよく探さないと見つからないほどになっていた。

白木しらき屋のY君は5年生で同じクラスになったので、よく遊びに行った。洋装店でには数台のミシンがならんで、お針子さんが数人がミシンを掛けていた。色白の品のいいお母さんも一緒に働いていた。既製品やつるしの品が普及するまでは繁盛していた。一番ベテランお姉さんお針子さんの顔は覚えている。

その昔は、家つくりからしても、宿だっただろう。家の柱は太くて黒光りしていた。一階奥には中庭があり、敷地は広かった。江戸時代まで遡って説明できる人はいなかったから、聞くこともなかった。庭の奥に土蔵があったのは、おぼろげに知っていた。高校生になると、彼も知らなかったことを発見したように、「蔵の二階に隠し部屋があった。バクチ部屋だったらしい」とY君から聞いた。

宿場のどこかには、賭場を開いているのは、映画テレビの当時でも、賭博はご禁制であったから、善良な人には影響を及ぼさないよう役人が監視の目を光らせていたから、隠し部屋があったのだろう。

Honmachi3470_2 枡形を抜けて真っ直ぐの本陣がある宿場通りに入ったところが、ウチの敷地である。馬宿をやっていた跡地が、ウチの家だった。馬宿となれば、建物は屋敷はあまりしっかりはしていない。ただ、敷地から一段低い石垣が家の下にあった。馬をつなぐ、地下駐車場風になっていた。昭和20年代、「下屋したや」と呼んでいたが、味噌を作る桶など、物置に使っていた。めった奥へは入っていかなかったが、どういう由緒の家だったか、大人になるまで知らなかった。

わが家が大正二年頃に、杉野町のマル仙から移って、米の精米販売の店を始めた。この米屋も「米穀統制令」が昭和17年に出されて、戦争中は米屋十数軒がわが家の家屋を使って合同米屋となった。米屋のわが家はなくなった。参考

戦後繁盛していたのが、向かえの「近藤家具」だった。ホンダの原付バイクを買ったのも、テレビを買ったもの、本町で一番だった。多分昭和25年だったと思う。バイクは荷物運びに利用したが、兄テルちゃんの趣味みたいなもので、中学生や小学生にタダで試乗させていた。

近藤の家は、テレビが見られるとあって、夕食時には、部屋一杯になるほど、子供が集まってきた。それでも、兄貴のテルちゃん、弟のアキちゃんは文句いわなかった。お母さんがなくなり、それから、時代の流れが手作り家具の時代でなくなった。人のいいテルちゃん、技術はあっても営業が苦手だったのか、いつの間にか、田口医院の駐車場になってしまった。

そのころは、田口さんは、近藤家具の隣りに、表はずーっと格子が続くシモタ屋で十一屋と呼んでいたが、部屋数だけは多くあった。おばさん一人で管理していた。息子がいると聞いていたが、私が中津を出る頃に医院を開業した。玄関を入ると、奥まで十メートルくらい、もっとあるような土間が続いていた。奥が台所で、水甕に水をいれて使っていた。参考

林さんが一家で住んでいた時期もあったが、林さんのお父さんは、商売に長けた人で、そのころはいろんな商売を試行錯誤していた。今は新聞販売に落ち着いたが、それまでに、珪藻土から切り出したコンロを販売したり、名古屋の生地を仕入れて端布を販売していた。子供用のベビースクーターを5,6台仕入れて、子供に30分5円で貸し出した。

Photoベビースク-ター 色は青、これより大きく、バネとチェーンがついてこげる ベビースクーターなど、今説明しても、実物がないから、伝えにくいが、町の中に若者が足でけって進むあれの少し大きめのモノ。それを自転車のチェーンがあってこぐと自走する。自転車に乗れたら乗れるようだが、案外バランスがうまく行かない。大体、本町から出て、横町回って、横清水を通って、大山文具の前を通って本町へ戻る。これをフタ回りで30分5円になったような記憶だ。

南小学校の運動場の回りを名前もない川が流れていたが、その川は市内を抜け、中津川に合流する。その川が、田口家の庭と家屋の下を流れていた。もちろん、今も、流れている。友だちがひと夏下宿したとき、白木屋と同じく、屋敷の中に広い庭があった。

いやはや、ここまで書いても、本町の入口だ。まだ、向かえが松村、小栗、内木、吉田、可知、佐々木、大鋸、西陶園、曽我さん(庄屋宅)。野沢、鷲見、(倉前町道路挟んで)岩田歯科、渡辺、小池(魚常)、加藤ポンプ、則武、成瀬、工藤下駄屋。18年間に、それぞれ一軒ずつ思い出がある

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中津川市(なかつがわし):人口82,117人(2009年10月1日) 岐阜県の南東部に位置する都市であり、東濃東部の中核都市である。岐阜市からは遠く、長野県に接するが、江戸時代尾張藩の指示を受けていた関係で、経済・交通および文化面では愛知県の影響が大きい。山地が多く、清流が市内を流れ、木曽川水系においても水の綺麗さの点では有数の地である。

投稿: 岐阜県東濃 | 2011年10月 5日 (水) 02時44分

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