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2009年12月20日 (日)

中津川豪商 生き方 杢右衛門と半兵衛

Photo_2 間杢右衛門ハザマモクエモンは、丸八といわれた間家当主の代々の名前である。中興の祖として、八代目間杢右衛門喜矩ヨシノリががんばったストーリーである。それだけではない、と作者は言っているが、杢右衛門のやったことが印象に残る。

比較対照の、半兵衛というのは、分家、五代目間半兵衛秀矩である。杢右衛門が商売一筋だが、こちらは、時局に敏感で明治維新の長州藩の攘夷の動きを支えようとしている。それが、後世の郷土史家に好感をもって受け止められている。

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大島栄子(中京学院大準教授)の「商人たちの明治維新」は、中津川の代表的豪商間家を中心に中津の歴史をわかりやすく掘り下げている。中津川町が発展した過去に豪商間家が関わってきた言い伝えはいくつか聞いているが、それがきちんと書かれたモノは少ない。

中学二年になって、間太利先生の担任になったとき、他の先生が「間家」を意識していると分かっていたが、その先生の後ろにある歴史には、ピンと来ていなかった。「商人たちの明治維新」を読むと、間家の発展と同時に中津川の「夜明け前」が伝わってきた。

6代7代が差配した「丸八」は、どんぶり勘定で借金まみれの状態になっていた。江戸時代末期1843(天保14)年に、八代目が養子として、迎えられ、彼の一代で見事「丸八」を立て直した。そのあたりがドキュメンタリー風に描かれている。

Photo_3八代目杢右衛門(幼名斧次郎)喜矩   彼は、中津川宿の貧乏な商家(久野家)の末っ子に生まれて、大井宿(恵那)池田屋(酒造)へ丁稚修行に入り、帳簿の付け方を仕込まれて戻ってきた。その帳簿付けの才能を見込まれ、「丸八」の婿養子に白羽の矢が立って、婿入り。これが23才。

七代目には子供がなく、養女に取っていた娘に婿として、八代目間家当主に座った。八代当主の座に坐ってみると、七代目の作った借金、番頭が隠していた借金があった。

なんだかんだと、現代の金額に換算すると、たぶん二億円~一億何千万の借金負わされていた。杢右衛門が婿に迎えられたのは、借金を負わすためだったのか、と彼は書いている。当時の中津川一の豪商は菅井嘉兵衛。間杢右衛門は6番、7番あたり。

彼が帳簿を付け始めてわかったのは、丸八の資産は188両。婿入りの翌年に書いた丸八の資産である。これは、1両を当時のレートで考えれば、1両=10万円なら、1,880万円程度である。彼が24年後に息子に家督を譲ったときの資産が16,563両であるから、100倍とは言わないまでも、借金を背負わされて、それを返してのちの16,563両だから、まあ資産を100倍にしたといっても、過言ではない。

Photo_8 ムコ入りから隠居までの24年間には、丸八の経営危機があり、大儲けのチャンスもあった。ムコに来て6年目、寿明すめ姫が江戸へいく時、数百人から数千人が中仙道を通ると、すると、日常品の特需が起こり物価が急騰する。そういうチャンスが10数年に一度しかないチャンスに、塩を一気に数ヶ月分を仕入れて、数日で売りさばく。これで、八代目間杢右衛門喜矩ヨシノリは、数千万円に相当する金額を稼いだ。これに味をしめた彼は、チャンスのたびに、このやり方で成功している。

引退時に、資産が16,563両(1867年)といっても、一両の価値は幕末は暴落しているから、まあ、これは経済学の本職に鑑定してもらわなと、よくわからないが、かなり間家の財産を増やしたことははっきりしている。中興の祖であることは間違いはない。

Photo_4 間家は、今郵便局の場所にあり、表は新町(中仙道)で裏は花木町(元役場の前)まで一帯が間家の屋敷であった。

大店の台所は、外から見えないものだが、「丸八」の場合、八代目が当主として坐るまで、借金の金額も確定していなかったし、資産計算もできていなかった。そこで、八代目杢右衛門が整理を始めると、出るは出るはで、大赤字の姿がはっきっりした。

先代七代目は、仕事は番頭に任せて、東濃(東美濃地方の)文化人として俳諧で名をなす人であった。俳諧の文化的素養で六代目に認められ、七代目として婿養子に来た人で、経営はあまり得意ではなかった。幕末当時は、文化教養が、俳諧が取り持つが町の寄り合いでは、大事だったのだろう。その後、町のインテリは、平田国学の攘夷思想が伝えられると、一斉にその討幕につながる、当時の左翼思想だろうね、その思想に町のお偉い方は染まっていく。

Photo_7丸八別荘 この池は冬は凍ってスケートができる。 「丸八」の商売は順調に伸びたのだが、牛方の評判がよくなかった。牛方=今の宅急便。丸八の荷駄を扱うと、きちんとして厳しかったのかもしれないが、利益が少ないと言い出し、ストライキをされて、丸八はこれを機に、宅配業から手を引いた。八代目杢右衛門の最大の失策だ。運送業は分家である五代目間半兵衛に仕事を譲った。

そのあとは、カネ貸業に転進し、こちらで大儲けした。これは不景気になると、カネを借りる人が多くなる。幕末は物価が上がり、不景気が慢性的に続いた。担保に土地を預ける人が多く、その土地が焦げ付き、丸八のものになることが、幕末から明治以降多くなった。

Photo_9 中仙道は、東海道ほどではないだろうが、街道沿いで、通る人は宿場に一泊しないと、次の宿場へは行かれない。一日で20キロ(五里)歩くのが標準だった昔は、早い人でも、40キロは歩くのは大変だ。中津の町は、今以上に宿泊者で賑わっていた。単に通過する客ではなく泊まるから、そのために日常品が必要である。すると、宿も周辺の商店も繁栄した。中津川の町は商店が主要産業であった。

中津川の政治的な立ち位置は、尾張藩の直轄地で、中津川宿(町方)は木曾の代官山村氏が統括していた。木曽福島には関所があり、(幕府の)代官所がおかれていた。「夜明け前」でも、問題が起こると木曾福島へ出かけるシーンが描かれている。

代々山村氏が木曾一帯の代官であったが、冬の雪の多い時期は中津の尾張藩の直轄地中津川の代官詰所へ来ていた。幕府と尾張藩に勤める特殊な身分であった。冬だけでなく、中津川のほうが、経済的にも文化的な面からも魅力があったから、しょっちゅう木曽福島から中津川へ来ていた。

Photo_5 三代目間杢右衛門のころに、間家には分家が三軒できている。徳川御三家みたいに、親戚ズジにご意見番のような家があった。山半、山五、いげ十という分家である。この中で、当主が八代目杢右衛門と歳が近い間半兵衛(二歳年下)が、理解者で相談相手になっている。

ところが、「丸八」跡継ぎの八代目は、商売一筋に家の立て直しで懸命に働いて、左翼思想とか、俳諧文化とは一線を画し染まらなかった。だから、間家が持ち直したともいえる。

ところが、義理の母は、当初は借金を引く受けて立て直しにがんばってくれる婿はありがたかったが、倹約倹約でうるさい上、分家の半兵衛と比べ、俳諧など文化教養に見向きもしない、八代目杢右衛門は疎んじてあまり尊重しなくなった。

半兵衛(間秀矩)は、幕末東濃地方では平田派国学者の筆頭であり、文人として評価の高い知識人でした。身分は、間家の分家・山半の五代目の商人で、中津川村や役場の役人、さらに代官山村氏の御用などを務める有力者でした。

間半兵衛より、間秀矩の名で有名で、平田派門下人を組織し、京都の長州屋敷に出入りし、天狗党を通過させ、また東山道軍を下諏訪まで先導したことなどから、明治維新に功労のあった人物として有名です。「商人たちの明治維新」(おわりに)引用

ところが、分家の山半の半兵衛は、俳句もやり、国学にも理解があり、思想もしっかりもって、攘夷思想があった。村役人もやっていたが、反政府組織天狗党が塩尻峠で諏訪藩の武士と戦闘したのち、中津へ下りて来る際、落合宿に宿泊した際、杢右衛門ら村の主な役人に呼び出しがあった。

中津の財界人から寄付金を集めるようと呼び出されたのだった。杢右衛門らから寄付金を200両(大体2000万円)をあつめた。届ける役目は、国学思想の半兵衛だった。このころ、半兵衛には国学の仲間が二十人以上いた。その国学の心酔者が多いことを天狗党は知っていたようだ。

Photo_6 中津川宿だけは、塩尻の戦いで傷ついた天狗党の戦士をかばって、内緒で治療したり、死者を葬った墓もある。これが横02178 田元綱の墓である。参考 他の宿場では、尾張藩の天領である木曾地域では、反幕府軍である天狗党は、歓迎されなかったが、この中津川宿へ来たら、炊き出しや酒が振舞われた。五平餅が出された記録がある。

平田国学グループがいた中津川では、好意的な接待され天狗党は非常に喜んだらしい。が、26日 馬籠 ー27日 大井とあるから、宿泊はない。福井まで行って、彼らが頼りにしていた慶喜が討伐軍の指揮していると知って、降伏した。(参考)水戸天狗党を歓待する 

斬首の後、首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。ウイキペディア参照

追加情報:中津川市は、歴史観光を楽しむには絶好の場所です。特に江戸時代の中仙道の宿場としてはかなりいいものが残っている。中津川宿を参照することをお勧めします。

この間秀矩(間半兵衛)の孫の子、曾孫が、中津川町長を22年、昭和33年から二期8年市長を務め、30年間中津川のトップをやった間孔太郎である。私の父の「同窓会」写真で半分よっぱらった間孔太郎の姿を見たことがある。今生きていれば、110歳。

中津川会議文久二年(1862年)、江戸の長州藩屋敷から藩主毛利敬親が中山道で京都に向う途中、桂小五郎(木戸考允)が中津川宿本陣でを待ち「中津川会議」を行った。
 幕府主張の「公武合体」から、薩長中心の革命「尊皇攘夷」に藩論を変更する方針で、藩主毛利敬親を説得し、この会議によって、長州の藩論は倒幕に傾いた。
 平田国学門徒が多い中津川宿は、反幕活動には便利だったようだ。この会議開催の段取りは、平田国学門徒ら
間(半兵衛)秀矩が中心になってしたと見られる。桂小五郎は彼らの手引きで中津川宿本陣の近くにかくまわれていた。

七代目杢右衛門の妻、姑(義理の母)は間家の娘として育ったから、八代目杢右衛門はムコだという気持ちが出て、晩年は、ムコへ手厳しいことをいう人になった。親戚や町のお偉方へ訴えをして、いじめが昂じて、杢右衛門は家を出てしまう。良家奥様だから言い分が通ったのだろう。しかし、今から見れば、姑が痴呆になっていたのだろうと推測できるが、ムコの立場はつらい。

姑が病床についてしまったので、杢右衛門は町へ降りるたびに、何度か姑を見舞いに行っている。八代杢右衛門には冷静な分別がある。

分家山半の間半兵衛は平田国学の急進的な反幕府思想で、この点は、島崎藤村の「夜明け前」でも蜂谷香蔵(=間半兵衛)として描かれている。彼は左翼思想(尊皇攘夷)でありながら、一方では山半という商家である。尾張藩の目を盗んで生糸を横浜まで持っていき、外国商社へ販売して2000両(2億円?実質は1/5程度か)の大儲けをしている。コレを数度やって、尾張藩から処罰をされている。

「夜明け前」作品の中では、中津川の大商家、万代安兵衛(=菅井嘉兵衛)と大和屋李助が国学師匠で医師の宮川寛斎(=馬島靖庵)が書紀として横浜へ生糸の売り込みに行く。それが小説の描写であるが、史実は、少し違う。
 中津の豪商菅井嘉兵衛が生糸の売り込みで、親類スジの間半兵衛と半兵衛の義兄(国学師匠で医師)馬島靖庵に横浜へ行ってもらう。その後、横浜出張所として、40代半ばの馬島靖庵は、国学や医師の仕事では生活が苦しく、菅井家の商売を手伝う形で、引き受けている。(半兵衛の祖父大脇兵衛門が残した大黒屋日記に(半兵衛の手紙がある)

つながりは、間半兵衛は豪商菅井嘉兵衛の娘を妻にしており、半兵衛の姉が馬島靖庵の妻になっている、という関係ができていて、菅井嘉兵衛の仕事を頼まれた。

間半兵衛の子孫が、中津川市の政治的な地位(後に市長になる)にいたので、島崎藤村は明治政府の功労者に傷のつくような文章は残さなかた、と推測されている。だから、半兵衛の反幕府行為は避けたのではないかと、作者大島栄子は書いている。

教会の水垣さんのお父さんが「間半兵衛秀矩とその業績」(水垣清私家本)という本を書いている。どこまで調べてあるか、一度読んでみたいものだ。

最後十一代目、最後の間杢衛右衛門運吉は、平成7(1995)年に亡くなった。東京地裁の裁判官、弁護士をやっていて中津とは縁が薄くなっていた。

私も、学生時代、間太利先生の勧めで、「一度訪ねてごらん」と言われて、先方の都合を聞かないで訪ねていってことがある。運吉さん、「富士登山をして帰ってきたばかりで、疲れているから」と断られた。私の情熱不足で、再度訪ねて行かなかったのは、返す返す残念だ。

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コメント

Nozawa22さんという方は、もう少しブログの記述に慎重になった方がいいように思います。「左翼思想(尊皇攘夷)」という記述は、よもや「左翼思想=尊皇攘夷」と言いたいのでしょうか。「山半という商家」が「尾張藩の目を盗んで生糸を横浜まで持ってい」ったという事実はありません。中津川会議に関する記述を含めて、人の書いたものを鵜呑みにせず、「事実に基づいた記述」と「年齢に相応しい常識」を期待したい。

投稿: nozawa24 | 2009年12月24日 (木) 19時38分

「左翼思想(尊皇攘夷)」という記述は、幕府体制に対してそれを打倒する勢力ですから、左翼思想=尊皇攘夷と発想して間違いないでしょう。

「山半という商家」が「尾張藩の目を盗んで生糸を横浜まで持ってい」ったという事実はない?山半が横浜へ生糸を売りにいった事実を大黒屋日記の中かに記載されていて、それを大島栄子「商人たちの明治維新」のあとがきで書いています。その上、尾張藩から閉門処分を受けていると杢右衛門日記に書かれているし、大黒屋日記にもある、と大島栄子氏は書いている。それで異議がるようでしたら、著者にお問合せください。

つまり、五代目山半の政治行動と商売の行動で矛盾があると、著者が言っている点、これは注目に値すると、私は思います。

間違いは間違いであり、間違っていたら訂正します。
「年齢に相応しい常識を期待したい。」というのは、その論拠があるなら、それを教えてください。

ただ、歴史は事実が闇の中である場合が多いので、真実が極められない場合もあります。 それは小説のように作者のつくる真実が流布する場合もありますので、その辺は、それは、それでしょう。

投稿: nozawa22 | 2009年12月25日 (金) 12時58分

間孔太郎というキーワードで貴兄のブログにヒット致しました。実は私は孔太郎氏の嫡孫(長男譲二氏の長男)と大学時代の同級生で最も親しく付き合っておりました。もう20年も前のことですが中津川のお宅へも遊びに行ったことがあり、お父上に温泉などご案内いただきました。ちょうど当時はお父上が市議会議長に就任された頃ではないかと思います。孔太郎氏未亡人もご存命でした。
私の祖父は佐賀出身なのですが孔太郎氏とほぼ同年(明治36年)生まれで早稲田に通っていたこともあり、もしかしたら祖父同士も親友だったのではなどと想像して楽しんでおりました。何か不思議な縁があったらなどと。
間家のストーリー興味深く読ませていただきました。
貴兄のブログをお気に入りに追加させていただきましたので、また、ゆっくりと記事を拝読させていただきたいと思います。

投稿: | 2010年5月24日 (月) 23時55分

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