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2009年12月17日 (木)

平清盛は進取の精神だが 一族は

9172 平清盛が死んでから壇ノ浦で平家が滅亡するまでに、わずか4年。源平の合戦と称せられる平家源氏の戦いは、すでに始まっているが、平家の棟梁清盛がなくなってからは、戦略がことごとくうまくいかないのは、なぜだろうか。

図式としては、平家(自民党)-源氏(民主党)-貴族(後白河法皇=官僚機構)として、源平合戦を見ると、対立構造がよくわかる。

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後世『平家物語』などで平家は悪く言われるが、明治政府が徳川政権や江戸時代の風習を悪くいうように、平家負けて源氏の鎌倉幕府が成立するから、平家は悪人に仕立てられている。特に平清盛は悪の権化になってしまう。「平家にあらずんば、人にあらず」のように、そうか、平家は悪人だったのか、と我々は刷り込まれる。

9152 清盛は、武士階級が貴族階級の番犬扱いされている間から、なんとか、貴族階級の仲間入りを虎視眈々とねらってた。その貴族につく武士にも、平家源氏がいた。清盛が台頭してきたのは、源氏が負けて平家側が力を付け始めたときだった。天皇家では、後白河法皇が息子二条天皇に位を譲ったのち、清盛は二条天皇の警護担当することになった。

平家一門は、女達も清盛の天皇家は食い込む方向へ必死に強力していた。清盛の妻時子、彼女は二条天皇(後白河上皇の子供)の乳母として出仕した。時子の妹滋子も、天皇の子供の教育係として上がっていた。平家の女たちは、一門の勢力が広がるように陰の力だった。

二条天皇(子)と父後白河上皇の間が、うまくいかなくて争いが耐えなかった。二条天皇を安心させるため、清盛は天皇の周囲に兵を置き、徹夜で警護した。天皇に信用され、徐々に地下人から昇殿を許される地位にあがった。

清盛は二条天皇とだけでなく、後白河上皇にもご機嫌伺いにも参上して、信用を得ていた。まあ、これだけで、相手は気許してはくれない。後白河上皇の娘の教育係に、妻時子の妹滋子が上がっていた。滋子は、枕草子の清少納言の立場だったが、美しくおだやかな性格と評判だった。後白河の目に留まり、寵愛、つまり側室になった。後後白河は35歳、滋子は20歳。今の感覚では、50歳のバツ2が27,8歳の娘を手にしたようなもの。また、清盛の娘徳子(建礼門院)が二条天皇に嫁ぎ、のちの安徳天皇を生む。

後白河上皇の実子が二条天皇で地位についている。それが、普段でも親子の仲がわるいのに、滋子が後白河上皇の子供を生んでしまったから、ますますややこしくなった。

ところが、二条天皇は早死にして、後白河上皇は再び、政治活動を開始した。滋子は肝っ魂の据わった女性で、自分の生んだ子供が天皇80代高倉天皇81代安徳天皇の前になっても、「前世の行いがいいから、こうなったので、別にどうこう思っていない」と言っている。

9149清盛と後白河上皇との関係は、滋子のいる間は波風は立つこともなく過ぎた。滋子が死んでから、清盛に相談なしに、平家一門が治めていた領地を取り上げて、平家一門以外の人へ渡すなど、清盛にはカチンとくる人事をやるようになった。

清盛は武力をつかって、後白河上皇を幽閉して、権力を奪って、おとなしくさせようとしたが、このあたりから、きな臭くなってきた。

9157 清盛の先見の明ある政治が展開された。旧来の貴族などの政治勢力を無視して、貿易立国を考え日宋貿易を始めた。そのために古い体質の貴族には、従来の生活を破壊されることを嫌った。だから、平家がのさばって自分たちの権益を妨害する存在に見えた。

この傾向は、寺院を焼き払うとか、旧勢力の一掃を図った織田信長のやり方にも現れている。保守勢力はいつの時代にはいて、新しい時代への障害になる。次の時代をダレが握るかで、評価が変る。

清盛が福原(神戸)へ遷都する計画を発表したら、貴族は大ブーイングで、反清盛、反平家の一大旋風が起こって、清盛打倒、平家滅亡計画を立てるのも出てきた。鹿ケ谷の陰謀は、密告が出て、後白河上皇もかかわっている様子がわかってから、急速に後白河上皇と清盛の関係は悪化した。

その空気に呼応するように、後白河上皇の意を汲んで、天皇の宣旨を抱えて、後白河上皇の第三皇子以仁王が全国の源氏を回って「平家打倒を」と訴えた。それに立ち上がるのが木曾義仲、源の頼朝である。平家追討の「令旨(りょうじ)」を全国に雌伏する源氏に発し、平家打倒の挙兵・武装蜂起をうながした。Wikipedia

経済立国、貿易立国のために、隣国の中国(宋)から大型船の寄港できるように福原の大輪田泊の改修をした。この文化や経済を重視したグローバルな貿易立国の方針を持っていた。

9178 自分たちの地位に安住していた貴族(現代でいえば官僚)には、清盛の先見性はとても理解されるものではなかった。貴族の立場を危うくする清盛は、「身の程知らずだ」とボロンクソに言っていたのは、当時の関白・太政大臣九条兼実だ。「夢か夢にあらざるか、弁え存ずるところなし」(玉葉)日記に平家への憎しみが書かれている。

9161 「打倒平氏」の声が広がり、源氏の武装蜂起が始まった。火付け役の以仁王がまわって行った成果が出てきた。こんな程度の抵抗は、政権を握っていた平清盛には、かゆくもなんともないだろう。ところが、突然の死が清盛にやってきた。現代の医学では、熱病で苦しむさまをみて、マラリヤの熱だろうと見られている。64歳で突如、平家統領が急にいなくなったのは大きい。

息子や弟、甥はいたが、清盛の築いた地位に滑り込んだだけで、武力、政治力がない。和歌が上手だったり、琵琶がうまかったり、笛がうまく吹ける芸達者で、貴族化していた。平家一門が貴族社会へ溶け込むには、ゴルフがうまく、カラオケがうまいとウケがよく、出世につながるような感覚だったのだろう。お祖父さんなどの時代は無骨で、貴族たちにバカにされていた。今や、孫の代には、芸達者が揃って貴族社会に溶け込んでいた。平家一門は、成功していたといえる。
①弟:平忠度:和歌の達人
②孫:平敦盛:笛の名手
③孫:平隆正:琵琶の名手
④孫:平維盛:舞の名手

9164 源氏(現代でいえば、民主党)にとっては、いまこそ攻め時に立ち上がったといえるかもしれない。平家は従来の戦いルールなら、自軍の旗をひらめかせ、攻めてくるものだ、と思っているから、赤旗(平家の旗)が近寄ってきたから味方が加勢に来たとおッ持って油断していたら、突如白旗(源氏)に変って、攻め立てられて平家軍の方が多かったのに負けてしまった。

 翌治承5年(1181年)6月、城助職(平家軍)は大軍を率いて信濃国に侵攻し、雨宮の渡しの対岸に位置していた川中島平南部の横田城に布陣する。それに対して義仲(源氏軍)は上州に隣接する佐久郡の依田城を拠点に、木曽衆・佐久衆・上州衆を集結して北上、6月13日横田河原において両者が激突する。
 その際、
源氏軍は千曲川対岸から平家の赤旗を用いて城軍に渡河接近し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという井上光盛の奇策が功を奏して、兵力では城軍に劣る信濃勢が勝利を収める。(延慶本『平家物語』)

一の谷の戦いでは、朝廷から和平勧告がでて、源平両軍に休戦するようになっていたので、平家軍は休息していたら、陣の後側急峻の一ノ谷の裏山(鵯越)崖から馬もろとも源氏源義経が勇士70騎で攻め込み、平家の御曹司ら重要武将10名が討ち取られた。

壇ノ浦では、源氏が最初に攻撃したのは、平家の非戦闘員であるはずのカコ(水夫・こぎ手)で、こぎ手を失った平家側は操縦不能にしたうえで、源氏平家を滅ぼした。

800pxhokusosen 平家に言わせれば、源氏は戦争ルールを無視した戦いを仕掛けて、武士の風上にも置けない。というわけだ。勝つためには、ルールなど言っていては勝てない。赤旗か掲げるのも、休戦勧告無視も、こぎ手を射るのも、だまし討ちで卑怯だ、と平家はいうが、ゲリラ戦法は政権を持っていない側からすれば、それは常道だ。

民主党(源氏)でいえば、選挙上手なが指揮しているようなもの。平家(自民党)は、勝つための必死さがないから、負けそうになると、指揮官から逃げ出す。

貴族化した平家は、創業者の平清盛がいなくなって、二代目が育っていなかったのは、大企業でも、禅譲がうまくいかないと、そうなる。

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コメント

さしでがましくてごめんなさい。

③孫:平隆正:琵琶の名手

は平経正ですよね。

投稿: とおりすがり | 2014年2月 5日 (水) 16時09分

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