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2009年10月 5日 (月)

給食に脱脂粉乳を飲んでいたころ

02 日本が占領されて、岐阜県の片田舎にも、濃い焦げ茶色のジープとバンの中間の四駆に乗った進駐軍が来た。若い20代かと思われる米兵GIが、中津の町で数少ない英語がしゃべれる牧師さんの教会(日本基督教団)へ泊り込み、町の教育委員会へ日参して、教育改革の実行していたようだ。通訳は牧師さんもやったかもしれないが、本陣の市岡先生(のちに高校で英語を習った)が英文科出の女先生が担当したと聞いた。

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中津で戦時中も英字新聞を取っていたのは二軒だった。新聞屋から聞いた。教会のM牧師と高校の英語S先生だった。そのジープバンが走り回っていたころ、私は小学生で、給食として、脱脂粉乳を飲んでいた。飲まされていたというべきか、「まずい」と言っていた。残さないように指導されていたから、飲んでいたようなもの。あれはとか、子供の栄養不足を補うために給食を始めたらしい。

Kyusyoku 私のころは、男の子はみんな丸坊主。一級下の学年で4クラス中男子2名が長髪だったのを覚えている。あのころは、弁当を持って来られない子がかなりいたから。食うものが少なかった。昭和20年代、人件費が安くて、人を使うのはタダに近い感覚だった。昭和30年ころでさえ高校進学率は50%になっていなかった。

3d5cf60e95c47178 学校給食は、昭和22年(1947)1月20日に始まりました。日本の連合軍司令部が子供達に栄養を与えようと始まったのです。アメリカの慈善組織ララ(LARA)が援助物資を送ってきました。最初は東京、神奈川千葉の3都県(児童数25万人ほど)で試験的に始められ、のちに全国的に拡大していき、全国の都市部300万の児童が対象になりました。

Photo_2子供の栄養を考えて、「小麦」か「ミルク」のどちらかを選ぶことになりました。背を伸ばすため動物性タンパクを与えようとの結論から、アメリカの民間団体やユニセフからの寄付で、「脱脂粉乳」という粉ミルクが提供されることになりました。

脱脂粉乳はこんな金属のおわんで、飲んでいた。外側に自分の名前をコンパスの先を使って名前を書いていた。洗わないでおくと、脱脂粉乳といえども、たんぱく質や脂肪がこびりついていた。それが厄介なことだった。

ほとんどの人が不味いといっています。何故でしょう、最初は、アメリカから「生のままミルク」を運ぶ予定でしたが、船で運ぶと腐ってしまうため、脱脂粉乳という粉ミルクになりました。当時の製法では、不味いものしか出来ませんでした。今だったら絶対飲みませんね。昭和33年(1958)より牛乳が出されるようになりました。

この脱脂粉乳を生徒の人数分作ったものが給食に出されました。給食係りが大きなアルミのバケツで教室に運び、ヒシャクでひとりひとりのカップについでまわりました。(1人分の脱脂粉乳は、22グラムのミルクを180ミリリットルのお湯で溶いたのものです)出典

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