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2009年9月23日 (水)

軍用馬を徴用された体験談

7365 秋田県田沢湖村の近くに、西木村がある。有名な作家西木正明の出身地でもあるが、そので代々続く家へ訪れたとき、額に入った軍用馬の写真を見つけた。

仙北郡西明寺村及び檜木内村が合併して西木村

7369 今年、卒寿になる佐藤コメさん、「(その写真の馬は)ウチのチロです」という。その話は、聞いていても、涙が出そうになる話であった。

「卒」の略字(卆)が九十と分解できるため、90歳の祝いの言葉に使う。

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昭和16年、女学校のとき、きょう生まれるか、まだか、とコメさんは楽しみにして学校から帰ると、毎日馬小屋にかけつけた。そこには、生まれたばかりのチロがいた。どこの農家でも、馬は大切な動力源だから、大切に育てていた。

ウチで生まれた馬だから、馬小屋に敷きわらをして、餌の世話もした。まるで自分の弟のように子馬のときから可愛がって育てた。コメさんの家は、村で一番の大農家で、広い田を耕すには農耕馬は大切な動力である。それをちょうど、これから力を出し始める三歳を迎えたころに、徴発するのだから、農家には辛いことである。

それが、昭和19年暮、軍用馬として徴用されると、通知がきた。コメさんには、家族の一員を奪われる気がして、耐えられない気持ちであったが、軍の命令に逆らえるものではない。国家への奉公は、当然の時代に、少女の胸の痛みなど、数に入らない。

1939年(昭和14年)4月に軍馬資源保護法が公布され、毎年の検査で軍用保護馬に指定された馬の所有者は、一定の管理や「鍛錬」への参加などを行ない、大日本帝国陸軍による徴発にそなえる義務を負うようになった。
昭和16年10月、陸軍馬政課の命により、仙台師団は戦時に必要な軍用馬を徴発するため、師団長直轄委員会を開き、必要な徴発馬の数とその条件並びに買い上げ価格を決定した。

出征してく兵士を送る気持ちで、彼女の名づけた名前「チロ」を駒ヶ根の神社へ連れて行き、武運長久を願って帽子、肩掛けなどで飾ってやった。

チロが徴用される頃は、戦雲怪しくなってきていたが、まだ、姉は満州の公務員宿舎で子ども四人と幸せに暮らしていた。弟は東京の大学に通っていた。その二人が、あと数年で、弟は戦死、姉は引き上げ間際に病死ということになっていくとは、そのときはまだ知らなかった。

馬を送り出す前に、薄紙の和紙にチロの送り出したわが家の住所を書いてコヨリにして、耳の陰に見つからないように編み込んでおいた。馬は軍用馬となると、どこの馬か一切わからなくなるのが通常だった。

チロはコメさんの世話で、丸々太った健康優良児として、言ってみれば、甲種合格であった。荷駄を運ぶ馬ではなく、人が乗る騎乗用の馬にされた。出征の前の日まで、「軍へ行ったら、餌をたっぷりもらえないだろう」と、普通の倍以上は食べさせて、体調を整えてやった。

馬小屋の中は、ワラを敷き詰め、ふわふわの寝床にしてやり、至れり尽くせりの大事にされて、送り出された。徴用され貨車に積み込まれたのを見たら、涙がでた。ふわふわにワラの上から、板張り有蓋貨車にぎゅうぎゅう詰めの状態で仙台の司令部から下関まで連れて行かれた。

下関では、大陸に渡る前に、もう一度身体検査され、日本内地で最後の日は、水をたっぷりのませ、飼い葉をたっぷり食べ、朝鮮半島の釜山へ送り込まれた。そして、あとは軍事機密により作戦地名は一般国民には知らされない。したがって、チロの着いた場所は一切わからなかった。中国国内であることは想像がついた。

昭和19年、チロが徴発されてから、半年が過ぎ、一年に近いころ、写真入りの軍事郵便がきた。「チロ(とは書いてないが)は、御国のために、懸命に御奉公に励んでいます」という手紙の文章だった。写真を見て、あのチロに間違いない。そう思うと、懐かしくて、懐かしくてうれしかった。内緒で住所を書いておいたあのコヨリを、馬を世話する兵隊さんが見つけてくれたのだ。

その文面に、愛情を持ってお世話してくれる人の情けが伝わってきた。しかし、チロが出征する前の福々しい姿はなく、以前の一割どころか、二割は痩せていた。つらい仕事に従事していることが伺われた。

送ってくれた将校の名前も住所も、手紙そのものが戦後引越しなどしているうちに、なくなって、今ではこの写真だけが残っているだけである。チロに乗っている兵隊さんを探す手掛かりはない。

姉は、昭和21年、子供四人を連れて満州を脱出しようとしていたが、5人目の男の子を生んだばかりで、気はあせったが、体力が伴わず、病気を併発して満州で没した。

チロは、その後、どうなったのか、どこで戦死したのか、あるいは中国人の手に渡ったか、それも亡羊として判らない。戦争に負けるということは、こういうことなのかもしれない。

東京にいた弟が学徒動員で、軍隊に入ることになった。体格に恵まれていた弟は、激戦の島へ送り込まれたが、輸送船が攻撃されたのか、昭和20年、戦死の通知は来た。しかし、どこで死んだのか、わからないままであった。

コメさん、語り終わると、「ウチでは、私一人が生き残った。憎マレッ子、世にはばかる、ってか。ハハッハハハ・・・」と、卒寿のコメさんは笑っていたが、笑い飛ばすしか方法がないだろう。

軍用保護馬鍛錬の歌(軍馬の歌)http://youtu.be/WaBJ61V1d-c ★
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コメント

ここで掲載したチロの写真が使われているYouTubeがあった。軍用保護馬鍛錬の歌(軍馬の歌)http://youtu.be/WaBJ61V1d-c ★★

チロの冥福のために聞いてやってください。

投稿: 軍馬の歌 | 2012年4月11日 (水) 10時07分

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