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2009年9月24日 (木)

なぜ平泉で中尊寺、毛越寺が栄えたか 

6814 岩手一関の隣り平泉に、なぜ藤原三代が栄華を誇ったのか、疑問を感じる。

最初に訪れたのは毛越モウツウである。ここは、平泉文化として、五木寛之がこの地を仏教を語りながら紹介していた。確か、中尊寺の隣りにありながら、中尊寺へ訪れる観光客の1/10も来ているだろうか。連休のさ中にありながら、庭園や建物、雰囲気を楽しめる余裕がある。

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6793 毛越寺は岩手県西磐井郡平泉町の特別史跡・特別名勝。正式には医王山毛越寺という。隣接する園庭も含め毛越寺庭園とも言う。
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひ6780ら)の時代に多くの伽藍が造営されました。当時は堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれている。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失し、現在は毛越寺庭園となっているが、大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けている。

6790 曲水の宴を催した庭園の池の注ぐ川を見て、こうして貴族は楽しんだのか、と想像するのは楽しい。限られた貴族しか参加できるものではないが、今は庶民がそれをホーっと言いながら、古6807の文化を想像できる。あの曲水の宴でも、杯が流れてくる間に一首和歌を詠むのは、才能がないと「アレアレ・・」という間に杯が行ってしまう。みんながみんな、和歌を作れないだろうから、苦手な人は困っただろう。そんなことを想像すると、カネがあっても、才能がなかったり、歌はうまくても地位が低かったり、付き合いベタだったら・・・

6773 広々とした庭の真ん中に広い池があり、龍頭の船が二艘浮かんでいる。作られている。藤原二代の統領が浄土をイメージした大庭園を一度完成をさせたが、本堂、金堂円隆寺、嘉祥寺、講堂、常行堂、経楼、南大門など、多くの堂舎が立ち並んでいたが、原因は後世に伝わっていないが、火災で焼失している。戦火で焼けたのか、と思ってみたが、そうでじゃないようだ。木造だから、500年もすると、失火はあるのだろうか。

6796 浄土思想を形にして、まばゆいばかりの庶民の手の届かないこれだけの文化というか贅沢、今こうして有難がって観光に来ているが、当時の人の思いが我々に伝わっているのか、その点が疑問である。正直言って、現代の私には理解できないでいる。

私の貧弱な考えを述べるとしたら、為政者は、政治的支配と同時に宗教での救済することが、為政者の任務であると考えていたのだろう。現代でいえば、宇宙開発か、二酸化炭素の削減の研究に該当するのだろう。死後の世界、浄土を見ることで、当時の人には救いがある。そのことを生きていることと同じくらい重要だったのだろう。現代人よりもっと切実に思っただろう。

71777171 岩手県にあるリヤス式海岸に「浄土が浜」という場所がある。黄泉の国の美しさはこのようだと思わせる浜である。20年前行ったときの、浄土のイメージは今は商業主義に食い散らされて、面影はなくなっていたが、当時は仏教の思想が確実に昔の人には浸透していたことを思わせる。

6829 中尊寺へあの坂を上り、「五月雨の降り残してや金色堂」、20年前に見た金色堂はボロだったが、今は金ぴかだ。それがガラスの囲いの中に納まって、芭蕉が見たイメージはどこにもない。そうやって、観光客を騙して、中尊寺を伝えたことにはならないだろう。

Konjikidoooido天台宗の思想を伝える任務はないのか。観光客が多けれ ばいいのだろうか。勝ち組として生き残るのが先でよろしいか。負け犬の遠吠えよりは、カネを握る側に立つことが、まず大事か。実に悩ましい問題だ。

6836 今東光は、中尊寺(天台宗)25代目貫主で十年勤めた。書道展が開かれていた。

平泉藤原の歴史(ミニ知識):11世紀半ば、陸奥国安倍氏陸奥国の国司と争いになり、これに出羽国清原氏の源頼義が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが前九年の役である。前九年の役はその大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏を味方に付けた源頼義が安倍氏を滅ぼして終わった。
 永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を所領の6郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承。しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいて家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。

清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物をした。その為、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。その後、朝廷内部で源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かく、奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立する事になる。

6825 中尊寺への坂の途中、展望台から下に望むと、稲穂が黄色く実り、広々と田園が広がっている。この穀倉地帯が多くの仏教文化を支えていたのか、と感じる。

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