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2009年7月31日 (金)

陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓

164 靖国神社の一番目立つところに「生後三ヶ月の息子に遺訓」という文章がある。黒大理石に書かれている。気の毒に、沼田正春陸軍中佐は昭和19年レイテ島の激戦地で戦死。その前に書いたものらしい。(彼は、野砲第一連隊(戦死時31歳)昭和19年12月2日レイテ島リモン西南方面。)

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Senbotu9196 これらの人々、写真ではきちんとしているが、全員頭を飛ばされ、内臓が飛び散り、血だらけで死んだのだ、と考えても見てくれ。残酷な写真だ。恨みの霊に見えて来る。そんな写真が所狭しと壁面に貼ってあるのが靖国神社の遊就館だ。

 沼田中佐の遺訓は、わが家族を幸せにするため、死んでいく軍人の典型的な文章である。靖国神社側の意図、皇国日本の国民へこういうに臣民になるようという典型を示しいる。我が子への遺訓は、親子の情を余すことなくしめした文章だから、誰から文句は出ない。国を守るということは、我が子の健全に育つことだ、それを体現した沼田正春中佐である。まさに靖国神社にはふさわしい、都合のいい生き方、死に方をした。

この文章を今から5年くらい前に書いておいたら、コメントを付けてくれた人がいた。沼田中佐と同じ神奈川県の人が、彼のこと知らせてくれた。

徴兵された一般兵士では、普通は尉官、佐官にまでは昇進できないから、この人は、職業軍人だろう、と思ったら、違うらしい。

「沼田中佐は平塚市岡崎の出身で、徴兵の現役兵として入営しながら、その優秀さを認められて、第一期陸軍幹部候補生に抜擢、陸軍砲兵少尉に任官、当時では破格の出世をした人です。更に砲兵将校として出征した日中戦争で手柄を立て、功五級金鵄勲章を受章、昭和十八年、二十八歳にして丁種学生として陸軍士官学校入校を許されました。

その後陸軍大尉任官、第一師団旗下野砲兵第一連隊第一大隊長としてフィリピン戦線に赴き、文字通り太平洋戦争の天王山と言われたレイテ島リモン峠の激戦で斃れました。時に昭和十九年十二月二日。
 墓碑での階級は、陸軍中佐となっていますので、その功績により特に二階級特進を賜ったのでしょう。大変惜しい逸材であったと思われます。 合掌 投稿: 火噴症 | 2006年3月25日 (土) 17時04分」

Lymap21 Img48495db2zik2zj_2 フィリッピン レイテ島の戦い 日本軍の第1師団は、カラガラ湾一帯にアメリカ軍が侵入していると知らず、歩兵第41連隊と同様に北上してカラガラ湾に臨む平原でのアメリカ軍との決戦を企図した。ところが、カラガラ湾に抜ける途中のリモン峠で予想より早くアメリカ軍の第24師団と遭遇し、戦闘となった。以後、日本側はリモン峠一帯の山地にPict47071 防衛線を展開し、オルモック目指して南下するアメリカ軍を阻止する状況となった。
アメリカ軍は第24師団を主力に、第1騎兵師団の一部を加えてリモン峠を攻撃したが、容易には突破できなかった。予想外の苦戦に、アメリカ軍は第6軍予備としていた第32師団に加え、急遽呼び寄せた第11空挺師団を増援部隊として11月中旬にレイテ島へ投入した。うち第32師団が、上陸以来の戦闘で大損害を受けていた第24師団と交代して主力となった。11月25日にアメリカ軍はリモン峠北部の制圧。昭和十九年十二月二日に沼田中佐戦死。

Fi108859530_0e 遺訓を残されて育った戦中戦後を育った息子、そういう立場の人を少なくとも三人は知っている。書く側からいえば、国家に殉じて息子のためというが、その文章は立派だし、意味あると思うが、育つ過程に何のプラスにもならない。

遺書として息子に残して逝った人は、南方へ船に乗っているときに魚雷にやられて遺骨もないらしい。もう一人は、激戦地のニューギニアか、どこかで戦死か、戦病死らしい。

親ナシで育つことで、肩身が狭いし、成長過程の折々に相談することもできず、案外さびしいもの。彼らには、どこか影をひきずるような雰囲気を性格に残している。国家というのは、徴兵で国民を殺してしまったのだから、それをどう思っているのだろうか。靖国神社で祀れば、おしまいか?命を奪った戦前の政府は、どこかで責任取る気はないのだろうか。昭和天皇は、国民に詫びただろうか。どこまで和解できているといえるか、知りたいものだ。

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コメント

 「新型爆弾」の出現によって、国民を自分たちの盾にできなくなったお偉いさん達が、自分たちの身の安全のために敗戦を選んだだけですから、盾(=国民)に関心を持つはずがありません。彼等にすれば、道具はまた作ればよいことですから。
 大多数の国民は、今でも「カネゴン(金権亡者)」の盾となって低所得に落とし籠められているのですが、そのことをおわかりにならない方が多く、なかなか世界が良くなりません。「カネゴン(金権亡者)」は騙しのテクニックも抜群ですから、良い人たちはひとたまりもありません。

投稿: 山路 独 | 2009年7月31日 (金) 07時54分

沼田中佐は平塚市岡崎の出身で、徴兵の現役兵として入営しながら、その優秀さを認められて、第一期陸軍幹部候補生に抜擢、陸軍砲兵少尉に任官、当時では破格の出世をした人です。更に砲兵将校として出征した日中戦争で手柄を立て、功五級金鵄勲章を受章、昭和十八年、二十八歳にして丁種学生として陸軍士官学校入校を許されました。

その後陸軍大尉任官、第一師団旗下野砲兵第一連隊第一大隊長としてフィリピン戦線に赴き、文字通り太平洋戦争の天王山と言われたレイテ島リモン峠の激戦で斃れました。時に昭和十九年十二月二日。

投稿: nozawa22 | 2011年9月 9日 (金) 19時30分

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