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2009年7月26日 (日)

嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり

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嗚呼満蒙開拓団の映画を岩波ホールで見た。戦後60年も経つと、記憶も風化してくるが、戦前の日本は、満州国の建設が急務だった。どうして?と聞いてくれないと、話が先に進まない。

その当時までの日本の輸出品の主要産業は生糸だった。今の自動車産業と似ているが、もっと国民が生産に関わり、収入にもなっていた点で影響が大きかった。順調に貿易額が伸びていたのが、昭和初期から、日本は、不景気に陥った。明治維新後、日清戦争で勝ち、日露戦争も負けないでアメリカの仲介で樺太を半分領土にした。しかし、増える人口に、生糸がばったり輸出できなくなった。

岩波ホールの上映は終了しましたが、その後の各地の自主上映予定。参照

SyukkaSil4 生糸って、桑の木と蚕だから山間部でも生産できる日本に適した産業だったのだが、日本全国一斉に不景気になった。これは、2008年からの不景気の比ではなかった。

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Haroreki010016_thumb 輸出の花形であった生糸も①第一次大戦後の大正初期の不況を機に暴落 (山岡ではこれを機に寒天産業へ転換した)。景気の回復によって復興したが、病気の克服によって②欧州での生産量が増え再び暴落。さらに満州事変頃にも暴落 (この1931年/昭和6年に勝野製糸閉鎖) と何度も浮き沈みを繰り返した。現在では安くて③良質なナイロン製品中国韓国の安い絹の流通によって日本の養蚕産業は完全に衰退した。 参考文献 おいでんさい中津川市

私の生まれる前の話だから、実感はないが、昭和20年以降でも、町のあちこちに繭マユから糸を取る工場の残骸が、アチコチにあった。オバケ屋敷のように残っていた。昭和の始め頃、ウチで米の精米工場を本町に拡張する際にも、倒産した生糸工場の一つを買い取って、建築資材に利用したと聞いている。

092泰阜村やすおかむら 山がちの長野県泰阜村やすおかむらの地形を見ても判るように、「国が満州へ行くと広大な土地がある、ただで土地が手に入る」、「王道楽土だよ」と甘い言葉で、役場の人に言われると、生活苦からつい土地、家屋を売り、一家で満州へ出かけた。東北の疲弊は激しく、娘を都会の女郎宿に売り、娘は家のため、親孝行をする気で、売春の底辺を支えたといわれていた。

032_2 国策として、人口を減らしたいという願望があった。満州に日本の生きる道を求めていた。関東軍は満州を作り、中国に日本の影響力を残そうとした。その邪魔になるソ連からの圧力の防衛線を満州の辺地に防人か、屯田兵を置きたいと考えたに違いない。

戦後の歴史家は、暴走する関東軍を悪者にするが、満州が日本の生命線といい続けていたのは、日本国内の政府だ。それを「八紘一宇」というスローガンで国民に吹き込んだ。殆ど毎日、当時はテレビはないから、新聞、ラジオで、吹き込んだ。「狭い日本には住み飽きた」という言葉と共に、満州移住で成功しよう、と成功した話をソンドンした。

Bks0812311819000p1 満州で教員採用されると、内地の先生より給与が2割増しか、それ以上だった。なかにしれいの両親も満州で酒造会社を満州に作って、関東軍に納品して巨万の富を蓄えた。母と姉は歌舞伎座へ芝居見物に飛行機をチャーターして東京で一泊して帰ってくる生活をしたと語っていた。むつごろう王国の畑正憲サンのお父さんが開拓村の医師だったと読んだことがある。

Hata1民間で成功した人では、内地に帰ってからは余りおっぴらに語っていなかったが、売春旅館を経営して成功したというか、大儲けして、引揚者なのに、東京の一等地に庭付きの邸宅で暮らす人の娘を紹介するからとノコノコ付いて行ったことがある。立派な車があり、庭の芝生は青々としていて・・・

そのころの満州建国精神は、満州族、朝鮮族、蒙古人、漢族、日本人の五族協和だった。満州の人口は3000万人、日本人は20万人で1%未満だった。満州の役人のトップは満州人だが、後ろで決定権を握っているのは、多くは日本人だったようで、調査にきた国際連盟のリットン調査団は、満州を独立国だと認めなかったから、日本が怒って国際連盟を脱退した。

義父は満州の馬政局(日本でいう農林省)の役人だったので、満州を好意的に見てだろうが、最初、満州は「五族協和」の理想に燃えていたという。八紘一宇の標語から、長男の名前は「紘一」とつけたくらい五族協和に本気だった。仲間はいい名前をつけたと褒めてくらた。戦況が悪くなると、途端に日本軍の横暴が目に見えてきた。

八紘一宇(はっこういちう):「世界を一つの家にする」という意味の語。平たく言えば「人類平等」である。
 1903年(明治36年)新宗教団体国柱会を興した田中智學が、日蓮を中心にして「日本國は、まさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味で、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む」から「八紘一宇」としたものである。本来、「八紘」は「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。
 1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。根本方針として、「皇国の国是は、八紘(=世界)を一宇(=一軒の家)の精神に基き世界平和の確立とし、先づ皇国を核心とした日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」と定めた。そのスローガンが八紘一宇である。
Wikipedia参照

Photo_2 その頃の日本の行くべき国家像は、良し悪しは別にすれば、大東亜共栄圏という形で、明確であった。指導者の行き方さえ間違えなければ、繁栄した大日本帝国ができた。これはマイナスという貧乏からプラス繁栄へ憧れのエネルギーだった。それが中国、朝鮮等の国々を犠牲という前提があるから、それいは成り立つものでないが。

日本の理想、現代それがないから、引っ張っていくエネルギーが出ないと言われている。個々の人々には、今も昔も変わらないが、まとまった力がないのが、今の日本だ。統一したイメージがほしいものだ。これはヘタすると、統合の象徴のように「ニッポンがんばれ!」と利用されてしまうから、イヤだけど。

満州僻地へ日本の満蒙開拓団を送りこみ、ソ満国境の防衛線の一翼を担わせる意図がはっきりしていたが、貧しい農村から土地が無料でもらえるとあっては、日本の開拓団は文句はいえなかったかもしれない。

荒地から開拓するつもりだったが、行って見ると土地は耕作された畑が多かった。つまりは、地元の人々から二束三文で買い上げた土地だった。これが、満州拓殖公社の手による強制買収だったので、土地の人に戦後、襲われた原因の一つになっている。入植地をどうして手に入れたか

Photo_3 よその国へ軍隊を派遣して、日本の生命線だというのは、18世紀までの欧米の植民地経営政策を真似したのだが、100年遅れて日本が始めたから、ことごとく欧米の利害とガッチンコとぶつかって、ケンカになってしまったのが、第二次世界大戦(太平洋戦争)の実情だ。20世紀でも植民地経営が成功しているのは、よほど意識が遅れているアフリカくらいのものだ。

日本が敗色が濃くなり、殆どポツダム宣言を受諾することがわかってから、ロシアが日露不可侵条約を破って、囚人部隊を先頭にして戦車でドドッと満州を南下してきた。そのとき、最強といわれていた関東軍50万は、殆どが南方の島々へ移動していた。その代わりに、現地で召集した開拓民のお父さんたちを根こそぎ招集かけて、俄仕立ての兵隊を満州防衛に使った。開拓村に残ったのは、女子供、老人だけ。あと、満州へ満蒙開拓少年義勇兵として送り込まれた少年みたいな兵隊ばかりで、鉄壁のハズの関東軍はカスカスになっていた。

関東軍もソ連軍の情報は把握していたから、満州は2/3は放棄を覚悟して朝鮮に近い通化へ司令部を下げていた。それは、一般民間人には知らせていない。終戦一ケ月前にもまだ日本国内から開拓移民を送りだしていた。

051_2 ●●さん一家は、入植地に着いて、一ケ月もしないで、荷物が着いた日に開拓村を逃げ出すことになった。逃げ出す日、部落の入口に満州の地元の人々数千人が集まり、日本人が逃げ出すのを待っていた。逃げ出すと同時に、部落内に入り込み、豚を殺すは、牛は連れ出す、残っている家財は全部持ち出す。それはそれは大騒ぎになった、という。日本人で見た人の話である。

Photo 満人は貧しくて食べるものもないから、汚いモノを着て、髪はぼさぼさ・・・そんなイメージである。日本の女学生の修学旅行は、満州が多かったそうである。中学のS先生、女学校で満鉄特急アジア号で北上した時の話をしてくれた。駅弁を食べ終わって、窓の外へ投げると現地の子が拾って、ご飯粒が残っていると喜んで食べたという話を昭和28年か29年に聞いた。

A0009924_13243224_2 開拓団の集団逃避行が始まったが、昼明るいときに行動すると暴行受けるからと、夜、人の通らない山間を歩くとか、川を渡るときは、協力して渡るのだが、運悪く4歳、5歳の子が流されると救えない。ひもじくても食べる物がないので、子供をくれという家へ子供を渡してしまう親もいるし、夫が消息不明だとして、中国人の妻になり子供を育てたという人もいる。

ここ満州へ行けば、広い土地はあるし、生活は豊かになると盛んに勧めたのは、誰か。国家戦略として計画を立案し、地方公務員のノルマにしていたという。満州へ移民を送り出す人数が役場の職員の成績になっていた。「こんないいところですよ」と勧められたら、山間地で貧乏こいていたら、つい「満州へ行きます」と言ってしまうだろう。

081_2長野県泰阜村では、開拓移民1144人のうち郷里に帰れずになくなった638人。10人中六人近くが帰ってこられなかっ041 た。方正県へ行った人々はとくに過酷な運命が待っていた。国家の宣伝では、あまり言い記憶がないのが、この国の歴史であるのが、残念だ。

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コメント

 「低所得者の命で、自らの懐を肥やす」という社会構造が、今に至るまで何千年と続いてきていますので、なかなかおいそれとは変えることはできないものなのですが、今回の衆院選で、ほんの少しでもサルからヒトに進化したいものです。

投稿: 山路 独 | 2009年7月27日 (月) 03時11分

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