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2009年1月12日 (月)

森進一の父母、そして家族思いの歴史

Msc0804072326002p1 森進一の母は、鹿児島県の下甑しもこしき島の生まれで、生家は戦前はサンゴを取って加工していた。今、島には森進一の歌碑が立っているが、「森内(森進一の本名)家は、あそこにあった」という家は、島にはめずらしい二階建てだった(週刊文春1月15日号門田恭子記事参照)

01 一家は、戦時中に、今北朝鮮の港町になっている清津チョンジンに渡り、駅の近くで果物屋を営んでいた。隣りには日本人が米屋をやっている店があり、そこの息子が後に森進一の父となる人である。その人が海軍に召集されるとき、無事戻って来られたら、一緒になろう、と母と父は約束した。

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400pxkoshikijima_islands 敗戦後、母の一家は下甑島へ戻った。そこへ父が帰国して訪ねてきた。家族は大反対したのだが、二人は駆け落ちして山梨県の甲府へ落ち着いた。家の裏に水晶の加工工場があったのを覚えている。父は看板の絵を描く仕事で、単身赴任の形で静岡へ行ってしまった。小学1年になったとき、父のいる沼津へ引越し、その後、七歳下の妹、九歳下の弟が生まれた。

森進一は、先生に歌唱力は認められていたのか、音楽の時間、みんなの前で独唱をさせられた。

沼津にいる間、父は女性をつくり、母のいる家へ帰ってくることがなくなった。思いつめた母は、家を出て、父の妹がいる山口県へ行こうとしていた。森進一が、学校から帰ってきたとき、弟と妹を連れて出て行くところだった。「オマエも来るか?」と聞かれ一緒に列車に乗って山口へ着いた。弟はまだオシメをしている年齢だった。

父の妹の近くにいれば、父の消息がわかり、母はよりを戻せると思っていたが、そうはならなかった。そうはいかず、三人の子供をかかえて、働くこともママならず、市の生活保護をうけながら、市の母子寮で暮らした。生活保護を受けていると、教科書代はただ、給食費は無料だった。給食費も、森進一のところは▲印がついていて、集める人もカレのところは回収しないで避けていく。

母は、胆石パセドー病で苦しんでいたが、保育園の売店でパート職員で働いていた。持っていた着物も質に入れて、経済的には苦しんでいたのは、子どものもよくわかった。朝は牛乳と朝刊配達、学校が終わると夕刊を配って家計を助けていた。

胆石の痛みを止めるため、モルヒネを使っていたので、意識が混濁した母を外出先へ迎えにいくのは、長男森進一の仕事だった。中学3年生になったとき、故郷の甑島に近い鹿児島へ戻った。そこで、乾物屋を始めたが、商売はうまくいかなかった。

中学を卒業すると、集団就職列車で大阪へ行った。大阪十三ジュウソウですし屋へ就職した。皿洗い、お茶くみ、出前、夜は店の二階で寝泊り。月給は5000円か6000円。先輩に下駄で殴られたり…。母はラーメン屋で働いていたが、集団就職で故郷を出るとき、ちょっとだけ店を抜けて、線路際に立って白い前掛けを外して大きく振ってくれた。それが思い出だ。

学校で聞いていた就職条件と大きく違うので、すし屋は1ヶ月でやめて鹿児島へ帰った。しばらくして、気持ちを改め、再び大阪へ向った。それから鉄工所、バーテンダー、運送業など住み込みのできるところを選んで働いた。

Genba2 森進一はいう。僕は連続殺人犯の永山則夫とよくにていると比較される。集団就職で都会に出て、居場所が見つけられなくて、転々としていた。僕が永山則夫になってもおかしくなかった。僕には、母がいたから、踏みとどまっていられた。

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした元死刑囚である。
1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞。

東京へ出たのは、東京オリンピックのあった昭和40年のことだ。東京へ出てきたのは、大阪で串カツ屋で働いていたとき、芸能関係のお客さんに、まだ無名に近かったジャニーズの事務所ができていると聞いて興味を持ったからだ。

上京しても、右も左もわからず、井の頭公園で野宿した。やがて、親戚の家に下宿して荻窪のラーメン屋で働いた。叔母に勧められて「リズム歌合戦」ののど自慢に出場した。

東京タワーで予選があり、次に有楽町のビデオホールでテレビ収録をした。幸運なことに5週勝ち抜いてしまった。マラカスを振ってアントニオ古賀「その名はフジヤマ」や安達明「女学生」を歌った。審査委員のチャーリー石黒さんに「プロにならないか」と誘われた。

チャーリー石黒:東京パンチョスのバンドマスター。
1984年12月14日に享年56歳で亡くなっています。

チャーリー石黒の内弟子になって、石黒邸の離れに住み込んだ。天井も壁もベニヤ板の冬寒く、夏は暑い部屋だった。何度もオーデションを受けたが、関係者が「チャーリーさん、あの声ではムリだよ」とささやく声が聞こえた。

 なかなか芽が出ない兄を心配した妹から「近所の店番してアルバイトした」と2000円を同封して送られてきた。「これでうまいものを食べて頑張って」と手紙を読んで、泣けた

Photo1974年「襟裳岬」で日本歌謡大賞受賞妹を抱き寄せ一緒に歌う。誰に一番伝えたいかと聞かれ「母が生きていたら伝えたい」と。家族の団結がよく出ている。それだけ、苦難の人生だったことの表れで、森昌子が妻となっても、森ファミリーに入れないほどの一心同体。それを崩せない、それほどに兄弟の結びつきが強い。ソレまでが悲惨な人生から這い上がったサクセスストーリー、ということだ。

夜中に離れた母屋のチャーリー石黒のいる部屋の雨戸を叩き「見込みがないなら、そう言ってください」と訴えた。「僕には回り道をしている時間がないのです」

先生はよほど慌てたのか、まもなくポリドールレコードから「恋と涙とためいき」というバラード調の曲でデビューが決まった。ここから、人生は上向きに変わってきた。

デビュー曲のレッスンのため、猪俣公章先生のところへ行った。練習曲として吹き込んだ「女の裏町」という曲のテープを猪俣先生がビクターへ持ち込んだら、通りかかった部長が、青江三奈のデビュー曲を手がけていて、同じような声質で面白い「これは誰だ、すぐ連れて来い」となった。

猪俣公章福島県河沼郡会津坂下町出身。開成高校、日本大学芸術学部音楽科を経て、古賀政男に師事。
森進一のデビュー作にして大ヒットとなった『女のためいき』(1966年)を作曲、その後も森に『港町ブルース』、『おふくろさん』、『冬の旅』などの大ヒット曲を提供する。
他にもテレサ・テンに『空港』、藤圭子に『京都から博多まで』や『女のブルース』、水原弘に『君こそわが命』、五木ひろしに『千曲川』を提供し、成功を収めた。晩年は坂本冬美、マルシアを弟子入りさせ、自らの家に住まわせて育成したことでも知られる。
1993年6月10日、肺がんのために逝去。享年56(満55歳没)。

ポリドールレコードの方は白紙になり、ビクターで急遽「女の裏町」が「女のためき」と改題されてデビューしたのである。昭和41年ビートルスが来日した年である。森進一18歳。

所属先の渡辺プロから初任給は1万円、すぐ5万円になったが、四谷三丁目の3LDKにマネージャーと住んでいたので、家賃を払うと思うようには仕送りができなかった。その後、2曲目、3曲目はヒットしなかったので、歌手としては先がないと思った。

それなら、歩合制の事務所へ移って、キャバレー回りして短期で稼いだほうがいい、そのカネで鹿児島ですし屋を開くのがいいのではないか、そう真剣に考えていた。自分だけのことなら、歌手としてガマンしていられるが、家族のことを考えると、お金になる仕事をと思うのだった。

幸運にも、昭和44年「港町ブルース」が120万枚の大ヒットになった。この年の紅白歌合戦では早くもトリを務めた。翌45年には、鹿児島から家族を東京へ呼んで、東京世田谷区深沢の一軒家を借りて住み始めた。敷地は道路より高くなっていて、二階は弟と妹の部屋、一階は僕の部屋と応接間、茶の間兼母の部屋。二軒隣は王貞治選手の家であった。

弟は鹿児島の中学ではトップの成績だったが、東京の学校では成績が悪くなって、落胆していたが、「ニキビの正人君、勉強ガンバレ」など励ましていたら、ようやく自信もってきた。学年で3番という成績になった。

母の夢は、弟を医師にすることでした。それなら、慶応高校へ進学するのがいいと担任に相談すると「お兄さんは芸能人で生活が不安定だから、お金のかかる高校は諦めたほうがいい」といわれて、森進一は「絶対行かせる」と誓った。そして、その通りにした。たとえ歌手がうまくいかなくても、他の仕事しても弟を医師にすると決心していた。

家族そろって、幸せに暮らし始めたそんなとき、「おふくろさん」がヒット。しかし、幸せな暮らしは2年で終わった。見に覚えのないスキャンダルで、責任を感じた母が突然自殺した。その訃報は公演先の長崎で聞いた。

妹を嫁として、どこへ出しても恥ずかしくない女性に育てること、弟を医学部へ入れて立派な医師にすること、この目標が森進一の目標であった。その日がくるまでは頑張らなければならない、と思っていたが、母の死がいろんな思いと重なって「おふくろさん」が歌えなくなった。

そんなとき、「襟裳岬」(吉田拓郎:作曲、作詞:岡本みさお)を歌うことになった。三番の歌詞「日々のくらしはいやでも やってくるけれども 静に笑ってしまおう」これによって、落ち込んでいる気持ちが救われた。

母もいないし、妹は結婚して家を出て、弟は日大医学部に合格したので、一軒家は無用心だからと、4LDKマンションに移った。

Reiko9_2Msc0805170806000p1_3 昭和55年大原麗子結婚して渋谷区松涛で一軒家を購入。昭和61年森昌子結婚。平成5年、7LDKのマンションに移る。平成17年に離婚。今は渋谷区松涛に住んでいる。

森進一はなぜ離婚するか   森進一と大原麗子の離婚1984年   森進一が「おふくろさん」歌えなくなる? 森進一の父母、そして家族思いの歴史  参考 詳しすぎる外部リンク森進一・森昌子・入院・離婚騒動

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投稿: 森進一ファン | 2011年6月21日 (火) 22時37分

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