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2009年1月29日 (木)

満州引上げはどう行われたか

日本が人口は8000万人の頃、人口の1割弱の人が海外へ出かけていた。政府の「狭い日本に住み飽きた」というキャッチフレーズが出回って、それに多くの人は踊らされていたのかもしれん。

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Hikiagemap 敗戦の一日前、昭和20年8月14日に政府は、緊急電報を東南アジアの各国の日本大使館へ送った。
「在留日本人は原則定住の方針」というメッセージを出した。つまり、在留邦人を急いで帰国させるな、ということだ。内地に戻ってくれば、食料から教育、住宅の心配が政府のしごととして増える。従って、外国に出た日本人は外地に定住しなさい、ということだ。

 政府は、「在留日本人は原則定住の方針」を指示した。満州に進出したのも、台湾にしても、朝鮮にしても、南樺太にしても、その地で自活してほしいわけだ。
 海外にいた日本人は、全部で600万人はいた。平成の御世の今でさえも、日本人は100万そこそこだから、交通機関がまだ十分でない60年以上前の日本人が600万人以上海外に暮らしていたのは、凄い。今の感覚では、2000万人に相当する。其の当時の日本人はそれだけ、切羽詰まっていたとも言えるし、飛躍の気持ちがあったのかも。

 開拓部落の人々によって、ソ連の侵略を満州のソ連に近い地域に住まわせて、ソ連軍の侵攻を食い止める人柱にしようとしていたと考えられる。
 ソ連侵略は昭和20年(1945年)8月9日から始まる。その寸前に、満州に残っていた日本男子(45歳未満)は全員徴兵令を受けた。そして家の守りを老人と女に任せて、出征した。
 翌日8月10日には、満州開拓村は危険だからと避難を開始て、全てを捨てて逃げ出した。関東軍の本部がある地を目指して進んでいくが、途中、匪賊がその避難一行に付いてきて、近くに来ると、機関銃で避難民は襲撃された。

 辛うじて、逃げ延びた引き上げ集団は、頼りにしていた関東軍の駐屯地はもぬけのカラで、日本兵の代わりにソ連兵が駐屯していた。避難民代表がソ連軍に聞くと、「日本は負けた」S63024801 という情報が 正しいとわかた。
 すると、関東軍を頼りにして避難してきた一行の日本人はがっかりして、しゃがみこんでしまった。声を上げて泣いている人もいた。
 
日本が敗戦、負けた、そんなはずはない。日本人が刷りこまれているのは、「常勝日本軍」だから、とても敗戦を受け入れられない。地べたに伏せて泣いている人もいたという。加藤登紀子 遠い祖国

 それからが大変だった。
 匪賊に追い回され、物を奪われた。万事窮して、全員が集団自決をした引き上げ集団の出るのは、これからだたった。

 日本人の引き上げた町へ入り込んだソ連軍は、日本人の作った工場を内部の機械を含めてごっそり、本国へ運んでしまう作業に集中していた。
 この悪どさは、西側の常識とは違う、そんな気さえする。工業化の遅れたソ連はめぼしい工場や近代的な施設はそっくり外して、近代工業の推進にとソ連圏内へ持ち去った。正確に対価を計算されていないが、数千億円に相当するはずだ。これは、日本へ賠償金を払ってもらわないと、割りにあわない。

 日本側が、工場設備を中国に置いてくるなら納得する部分もあるが、ソ連が持ち去るというのは、納得がいかない。これは正確に何をどれだけ持って行ったか、敗戦の日本としては調べた資料はないだろう。日本の施設を取り壊して運んだのは、中国の立場も、自国の物ではない資産だから、ソ連は同士だから、彼らのやることは黙認していたようだ。

 その後、ソ連は、シベリア開発に従事させる目的で、60万人の日本人を連れて行き、抑留した。日本人を帰国させると「ダマシて」、厳冬の零下20度にもなる原野でノルマを課して木材伐採をさせた。そのおかげで、シベリアの開発は進んだ。罪もない日本人が抑留され、多くの死者をだした。数年後帰国できても、この過酷な労働で体は衰弱して、多くの人は60代で死んでいる。
 
数年にわたる厳しい労働に従事したことに、ソ連、今はロシアは何の謝罪も償いもしていない。未払い給与についても、音沙汰がない。日本政府が、これを請求したということも聞かない。

 北方四島の返還と同時に未払い賃金も、60万人の抑留問題も解決するべきだ。これだけ、日本には要求するべき問題点はあるのに、日本政府はそれを言い出す前に、ソ連にゴチャゴチャと言い負かされている。この不法ソ連抑留のことを国民が忘れてしまっている。北方四島の返還だけでなく、ソ連抑留を追求するべきだ。北朝鮮の拉致数の1万倍も多くの人を拉致していたのだ。

 今も、日本海の真ん中にある経済水域のラインから日本の漁船がはみ出したと、ソ連の沿岸警備隊に連行された。いつもそうだ。交渉開始前になると、ソ連は領海問題で日本の漁船を人質のように拿捕する。漁民の人権保護を大事にする日本は、ソ連に下手にでて人質を帰してもらう・・・、弱い立場に立たされて、交渉する。いつも、ソ連に交渉の主導権を握られている。

ロシアのプーチンはソ連秘密警察出身で、やることがえげつない。

602pxvladimir_putin4crop  プーチンは自伝で少年時代、レニングラードの共同アパートで過ごし、小学生だったプーチンは母親似で、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいた。
 また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していた。幼少時代は相当な悪童であった。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、ピオネール入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。
1985年、東ドイツに出発する前に映画や小説からスパイに憧れを抱くようになり、ソ連国家保安委員会(KGB)でスパイになる方法を知るためにKGB支部を訪問する。プーチンはレニングラード大学法学部に入学し、大学4年生のときにKGBから勧誘があったため、プーチンは1975年に同大学を卒業後、KGBへ就職、共産党員にもなった。
 KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属されるそれから研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務。そして外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年に東ドイツのドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、諜報活動に従事したと自身は語っている。しかし東西ドイツ統一によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務する。(
ウイッキペディア参照

満州引上げはどう行われたか   
加藤登紀子 遠い祖国 
キャリアの失言と愚将牟田口廉也 
終戦 荒廃した国土 忘れるな
  
講和条約 日本は占領されていた 
戦争の影響 疎開、食料など
 
満州からの引き揚げ 1 
引揚げはこうして実現した。葫蘆ころ島 
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コメント

ロシア極東の都市の名前は、「ウラジオストック」
意味は、「東方を侵略せよ」
「ウラジ」というのが侵略の意味である。

ウラジオストックからみて、東方にあるのは、
ひとつの国だけである。

プーチンの名前は「ウラジミール」
ミールというのは、世界と平和を意味する。
平和なところに襲い掛かるのがロシアの歴史なので、
こういう皮肉な名詞になっている。
プーチンの名前の意味することは、
「平和な世界を侵略せよ」

2008年、平和の祭典オリンピックに合わせて
行われた「ウラジミール」グルジア侵攻。

「友愛」ごっこをしている場合ではなく、
すでに「ソ連」は復活し、
虎視眈々と侵略モードに戻っているのである。

投稿: ひらおか | 2009年10月16日 (金) 17時54分

 戦後満州引き揚げ 故郷への道
 我が子を手にかけ 満州引揚げ

 満州からの引き揚げ 1  
 引揚げはこうして実現した。
 ちばてつや満州体験語る

投稿: 引き上げブログ | 2013年2月 2日 (土) 17時41分

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