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2009年1月28日 (水)

赤塚不二夫の引揚げは葫蘆ころ島

1892 最近亡くなったマンガ家の赤塚不二夫は、昭和21年(1946)年6月15日、満州葫蘆(ころ)島から佐世保に引き揚げている。

5月7日が引上げ第1船1886 だから、早いほうだ。満州に住んでいた在留日本人155万人と言われているうち、105万が引上げのために、葫蘆(ころ)島に集まってきた。

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《日本に帰ってきて、あの佐世保の港を見たとき、ホントきれいだった。箱庭に見えたよ。小さい島があちこちにあって。だって子どものときそういう風景って見たことないんだ》(『ボクの満州』赤塚不二夫

18321834日本軍の武装解除のようすとシベリアへ向う

 満州で憲兵になれば、威張っていられたし、教師や警察官の給料は内地の1.2倍だから、多くの日本人は満州、朝鮮、中国へ渡った。当然、日本がまさか負けるとは思わないから、中国人に対して強気、バカにしてかかっていた。赤塚不二夫の父は憲兵で、主には八路軍を追いかけていたという。母親は芸者で満州で一旗上げようとして内地からやってきた人だった。

 敗戦時、赤塚不二夫は小学5年生だった。5年生は、相当物がわかるし、力もある。浮浪児になっても、食っていける能力がある。満州にいた軍人はソ連軍に武装解除されて、シベリヤへ連れて行かれた。赤塚不二夫の父親は憲兵だから、当然、シベリアへ連行された。

18631893 長男赤塚少年含め子ども3人を母親一人で葫蘆島の港まで連れてきた。「僕は要領がいいから母親から離れなかった」と後に赤塚不二夫は語ってる。三人に一人は帰国できなかったのだから、ましてや子どもは大変だ。母親から離れたら、間違いなく残留孤児になっていただろう。

1878 タンカに乗せられた病人の帰国。 赤塚一家が葫蘆島を出て日本に到着するまで4日かかりました。船は「上陸用舟艇(しゅうてい)」と呼ばれる平底の軍用船でした。底が平らだから、居心地は悪く、海上ではほとんどの人間がひどい船酔いに悩まされたそうだ。

 引揚援護局では、帰国者は1人1000円以上は没収保管された。家族は4人で4000円持ち込めた。この措置は、引上げ者のお金がインフレを増長させると心配したのだろう。 
引揚証明書(左が表、右が裏)で、1人あたり外食券3枚とパン100グラム支給。

1894 赤塚一家は佐世保から汽車に乗って、母親の実家である奈良県の大和郡山に着く。妹は、家に着いて寝かせて30分後にフゥーって死んだ。学校5年生だった赤塚不二夫は、「あ、かあちゃん孝行したな」って思った。だって、終戦直後の何もない時代、おふくろ1人で4人をどう やって面倒みるんだよ、っていうのがあったから。いま生きてたら50いくつかなあ。

1835シベリアへ向う兵士 引き揚げ者から没収した金銭は、1953年から返還が始まります。財務省関税局によると、預かった保管品約135万件(約44万人)のうち、3分の2は未返還だ。

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コメント

赤塚不二夫の引き揚げ体験記

投稿: | 2010年6月23日 (水) 23時39分

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