« 満州からの引き揚げ 1 | トップページ | やきもの散歩道 常滑とこなめ »

2008年12月13日 (土)

南から南から 三原純子昭和17年

南から南から」三原純子が歌う歌を聴きに、南小学校の講堂へ行ったのは、昭和20年か、その前の年だった。岐阜県出身の歌手だということで、地元の中津川の主催者は力をいれていた、そう幼心に感じていた。

南小の講堂は、田舎の建物としては、音響も配慮してカーテンもビロードの布地で、壁が厚くしっかりしていた。市の主催の演説会とか、有名人がきたら、南小の講堂で行われる場所だった。

☆読み始めたら、ここで木戸銭としてクリックしてね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ  nozawa22ブログ順位見る

New_pa66 『南から南から』昭和17年

♪ 南から 南から    飛んできたきた 渡り鳥    
嬉しそに 楽しそに    富士のお山を 眺めてる    
あかねの空 晴れやかに  昇る朝日 勇ましや    
その姿 見た心     ちょっと一言 聞かせてよ ♪

太平洋戦争が激戦になり、世間の目が南方諸島に向けられていった中で「南から南から」は、注目を浴びた。単純な歌詞だから、口ずさみやすいから、みんな歌っていたような記憶がある。この歌手について、どういう人だろう、ずっと疑問だったが、それを知る人が書いていたので+ウイッキペディア参照して以下記事は書かれている。

「三原純子」は920年(大正9年)8月6日、岐阜県飛騨高山の白川郷生まれ。女学校時代から演芸会では美声を知られていたが、卒業後名古屋で音楽の基礎を学ぶ。上京後も作曲家などに師事して、昭和14年19歳の時、タイヘイ・レコードの専属歌手になる。松竹映画の俳優・三原純にあやかって、芸名を三原純子とした。本名は黒田粋子

デビュー曲は「帰ろう帰ろう漢口へ」で、次には立花ひろしとデュエットで「さらば港よ」を歌い、「出島の雨」「乙女よ朗らかに」「さらば東京」「大空に祈る」「花笠おどり」「突撃喇叭鳴り渡る」「固い約束」など40曲ばかりレコーディングしましたが、昭和17年にキングレコードに移籍してからは、「点数の歌」を出しただけで、コロムビアに移りました。

大映映画「歌う狸御殿」に出演、それの主題歌「月の小島」で初のコロムビアでのレコーディングでしたが、此の歌が「楠木繁夫」とのデュエットであり、二人の出会いでもあったのです。

この「三原純子」は当時の世相は太平洋戦争で、国民の目が南方に向いている時に出した「南から南から」が大ヒットしました。この歌は#3まであります

「楠木繁夫」と恋仲だった「三原純子」はこの歌の作曲者・吉田信夫夫妻の媒酌で、昭和18年12月8日に結婚しました。楠木繁夫39歳、三原純子23歳でした。夫婦揃って軍需工場などに慰問に行っていたようですが、昭和20年の空襲で家が焼失してしまったので、夫妻で三原の故郷の飛騨高山に疎開していた。

戦後も夫婦で巡業していたが、楠木は大変な酒豪であり、又二人は戦時中から覚醒剤の「ヒロポン」を常用していたために、徐々に身体は蝕まれて行った。

ヒロポンは戦争中、公然と戦闘員の勇気付けに打っていた。軍がやらせたのか、単なる流行か、不明だが。夜も寝ずに飛行したり、恐怖心をなくさせたらしい。復員後にも、ヒロポン中毒で異常行動したり、自殺する人がいた。

夫妻揃って映画出演して、其の主題歌「夜風のタンゴ」などをレコーディングしたりして1950年(昭和25年)、には紅白歌合戦にも出場している。

昭和31年まで活躍していたが、音楽家から感染した肺結核が悪化し、夫の楠木繁夫も酒とヒロポン中毒で脳溢血で倒れ、妻の三原純子は肺結核が進行したために、故郷に転地療養をした。別居を強いられた「楠木繁夫」は寂しさと前途を悲観して、昭和31年12月14日に新宿牛込の自宅で梁に渡した縄で首つり自殺をした。52歳

三原純子には療養中であるため、夫の死を伏せていたが、頃合いを見て伝えたが、最愛の伴侶の夫の死の心の影響は大きく、 288_3 一年半後、昭和33年10月3日に夫の後を追うように38歳の短い生涯を閉じた。

高山市の法華寺に二人は眠っている。1977年(昭和52年)には、三原の故郷・飛騨高山に「楠木繁夫」と「三原純子」を偲ぶ比翼塚が建てられた。夫妻の良き理解者であった古賀政男は最晩年に病身をおして、この碑を訪れた。

☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
   ↓   ↓
人気blogランキングへ  感想コメント↓お書きください。

|

« 満州からの引き揚げ 1 | トップページ | やきもの散歩道 常滑とこなめ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 満州からの引き揚げ 1 | トップページ | やきもの散歩道 常滑とこなめ »