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2008年12月19日 (金)

遠藤実 国民栄誉賞 北国の春

Img_1470 現在の東京都墨田区向島に生まれ、戦時中は新潟県にて疎開生活を送っていた。1949年(昭和24年)、17歳の時上京。ギターを携えて流しの演歌師になる。
1956年、『お月さん今晩わ』(日本マーキュリーレコー
ド)にて作曲家としてデビュー。それ以後、現在に至るまで楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)を作り、舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。
Ep_funaki01_2また自らの名をつけたレコード会社・ミノルフォン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)を創業し、1960年には専務、1968年には同社社長になる。ウイッキペディア参照

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特に世界的に広がっているのが「北国之春」、中国人は日本の歌と知らないで歌っている人もいるくらいだ。中国の風土に馴染んでいるみたいで、歌う人が多い。

Img_1468Img_1466 ベトナムでもカンボジアでも「北国の春」を日本語で歌っている。アジアの国々で歌われている映像を見ると、いい歌はどこの国へ行っても好まれると思う。心がほっとになる。カンボジアの平壌レストランといえば北朝鮮の国営の店だ。北朝鮮の女性にも歌われているということだ。

故遠藤実さんに国民栄誉賞  「北国の春」などで功績 16人目の受賞 河村建夫官房長官は19日午前の記者会見で「遠藤さんは50年余りにわたり、国民に愛される歌謡を作曲して希望と潤いを与えた。『北国の春』は中国でも歌い継がれている」と語った。

Img_1474 お別れの会で千昌夫が「今日あるのは遠藤先生のおかげ」と涙声で語っていたが、先生の引きがあっての歌手である。この間、藤あや子と坂本冬美の二人も勝ち抜き歌謡天国で猪俣公章の弟子になって世に出てきた。千昌夫が世に出るには、やはり先生に恵まれたことだろう。先生さまさま。

Img_1477 遠藤実は別に優秀な学校出たわけではない。テレビで見ていて聞いた話だが、遠藤実は歌手になろうとしていたが、オーデションを何度も受けていたが、或る日、オーデション終わって帰ろうとしていたら、審査員が集まっている部屋のマイクが入っていて、そこの会話が聞こえてしまったんだそうだ。

Img_1475 「(遠藤実は)あのみすぼらしい服装はなんだ。あの顔で歌手になろうとするのか。」という声が聞こえたんだそうだ。そのとき、歌手にはムリだから、作曲家に方向へ切り替えたそうだ。なかなか他人の評価を知るチャンスはないから、遠藤実は神の声を聞いてしまったのだと思う。それで、作曲の志して成功するのだから、ひとの運はわからないものだ。

Img_1479 作曲を正式に勉強したわけではないのに、フォームより歌心をもっていることが強い。遠藤実は文化功労賞を受賞したときに言った言葉がしゃれている。詩人みたいな言葉が出てくる。

冷たくて涙が出たときもあります。
悲しくて風と一緒に泣いたときもありますけれど、
きょうの日のような花を咲かせるために あの日があったんだな・・

Img_1480 私が東京へ出てきた年に島倉千代子が「からたち日記」を歌ってヒットした。か細い声と左手が不自由な様子に応援してやりたくなるような歌手だった。

人生にやるべきことは一つ、そう決めて一途にやらないと、才能溢れているならともかくも、「1パーセントの才能と99パーセントの努力」でできることは開花できない。凡人は、そう知るべきだろう。夢(希望)はおいしい朝食だが、まずい夕食だ。と誰か言っていた。

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