« 白人至上主義 | トップページ | 筋金入りリベラリスト 筑紫哲也を悼む »

2008年11月10日 (月)

山本寛斉の少年時代 夕暮れは嫌い

Img_0515 この写真は、写真が二つに切れていて、左の父の部分と右の母と山本寛斉に別れていた。父の死後、遺品の中に左「父」の写真が出てきて、めでたく二つの部分が一緒になった写真だ、と山本寛斉は語っていた。

Img_0517 山本寛斉64歳 彼8歳が横浜から弟二人(上の弟5歳と下の弟3歳)と土佐にいた父の元へ列車で旅する場面から、彼は語り始めていた。今みんなが知っている、ハイテンションの山本寛斉とは雰囲気が違う。

☆読み始めたら、ここで木戸銭としてクリックしてね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ  nozawa22ブログ順位見る

Eiga2006 山本 寛斎(やまもと かんさい(のぶよし)、1944年2月8日 - )は、横浜市生まれ。岐阜市育ちの日本のファッションデザイナー、イベントプロデューサー。岐阜県立岐阜工業高等学校卒業。日本大学文理学部英文科中退。女優・山本未來の父であり俳優・椎名桔平の義父。弟山本斎彦:寛斎スーパースタジオ副社長。モデル・俳優の伊勢谷友介は異母弟。

幼少期に両親が離婚し、3人兄弟で高知県の養護施設で育つ。その後、父方の祖母がいた岐阜市に。父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをする。中学の友人から制服の改造を頼まれ、ミシン を踏むようになった。 また、応援団長となり、さまざまな応援の振り付けを考えるようになった。ウィキペディア(Wikipedia参照)

Img_0524 寂しげで、「夕暮れになって、太陽が沈んでいく時間が嫌いだった。夕飯時、幸せに過ごしている家庭がうらやましかった」と語る山本寛斉は、すでに少年時代の彼だったのか、腹に力の入っていない語り口だ。

土佐の駅に着くと、父も誰も迎えに来ていなかった。土地の児童相談所へ3人は引き取られた。「米穀通帳はもっているか」と聞かれて、ないと答えると急に扱いが冷淡になった、と彼は思った。そこは鉄条網で囲われている場所だった。

その時から、寛斉は、強くなろうと思い始めていた。けんかが強いのではなく、自分自身に対して、強く生きることを意識していた。

しばらく、相談所で世話になったのち、寛斉10歳のとき、下の弟は農家へ貰われていき、もう一人の弟と寛斉は岐阜の父の家へ行く。そこで、小学生時代と中学高校へ通う。

Img_0522今回、町を訪ねたとき、早朝明け方だった。自分の育った町、家を回りながら、「あまり寝ないでここへ(ロケ現場)来たので、血液が沈殿している」「感情が暗い、熟睡しないで起きた気分で、その当時もそんな気分だった」とディレクターに語りかけていた。

Img_0519 当時はいつもおなか空かせていた。12時になると、給食のパンが廊下に出されているので、それを一個つかんでトイレに駆け込み、ムシャムシャとかぶりついていた。多くの少年は貧しかったが、ウチは特に貧しかった。寛斉は、新聞配り、豆腐売りをして、大したお金ではないが、アルバイトをしていた。それでも、お好み焼きを食えるくらいのお金にはなった。

Img_0529_2  寛斉の弱点は、父や母から教われなかったのか、祖先を祭るとか、盆、彼岸のしきたりをできなかったから、先祖からの風習に疎い、と彼は言う。親がいない子、世話を焼かれていない子は、風習が身につかない。それだから、かえって、旧来のものの影響がない。新奇な発想ができるともいえる。そう利点に捕らえれば、知らないことが強みだろう。

父は静に家で、背広の仕立てなど、縫製の仕事を家でやっていた。時々「オレは生んでくれなきゃよかった」と祖母に向っていう場面を何回か、見た寛斉には、父親は反面教師であり、尊敬はできない父だったようだ。

Img_0543 それまでは、どっちかといえば、寛斉少年は線が細い、目立たない少年だった。ある雪の降った日、学校で雪合戦をしたとき、彼の顔に雪のタマが当った。その中に石が入っていたので、怒り狂ったように一人攻撃を夢中でした。彼に集中して攻撃が来たが、それでも夢中で相手チームを攻撃した。それを見ていたクラスメートは「おぬしやるなぁ」と、見る目が変わり、友人が増えていった。

Img_0525 家にミシンがあり、ズボンの直しくらいなら、寛斉少年はできるので、友達のズボンを細身にする作業を受けていた。多少のお金を取って、マンボズボンに直してやっていた。これが、後の山本寛斉の萌芽であった。父も「裕次郎みたいでいいじゃないか」と寛斉少年が履いたズボンを見てほめていた。学校の先生にみつからないなら、許可していたようだ。

Img_0532Img_0533 中学校では、応援部で応援団長をやって、生徒の注目を集めるコツ、その呼吸をうまく利用することを覚えた。応援の身振り、振り付けを寛斉少年は考えた。これは評判がよくて、野球の応援に行っても、みんなは寛斉の振り付けのほうへ目が行ってしまう、そんな感じになっていた。

この間を覚えたことで、山本寛斉は大成したと思う。人は、この間を使えば操ることができる、人の集中力を自在に操ることでイベントの成功へつながる。これさえ知れば、自然とイベントの構成ができる。中学生時代にイベントプロデューサーの素質をつかんでいる。

八千代高津南中学校を通りかかったとき、生徒会役員の女の子が運動会の締めくくり挨拶を校庭グランドで、父兄を含めて生徒の前で挨拶をやっていたのが聞こえた。張りのある声で自信に満ちた様子が伺えた。中学3年でこれだけ人の注目を浴びて、堂々と話ができるなら、将来が楽しみだな、と思った。

人の注目する「間」が自在に操れる、これが、わが友、A君は得意だった。生徒会長に立候補してのスピーチにしても、他の生徒から群を抜いて大人びていた。間をとって、どうしたんと聴衆が騒ぐ寸前まで気を持たせてから話し始めるテクニックは、先生方も舌を巻くほどだった。中学生からその芽をそのまま伸ばせたら、大物になる。それは、環境や先輩の引きがないと、その才能を生かせる舞台に立てない。

07012202thumb 山本寛斉は、出身中学校の生徒達の前で、「夢をもっているか」と「夢」の重要性を語っている。寛斉少年は生徒会の応援演説で、自らの発想で原稿なしで語り掛けることでメッセージが伝わるんだ、ということも知った。中学生くらいの時の体験が役立っている。

ちょっと、日本人にしてはでしゃばり過ぎの山本寛斉だと思って見ていたが、過去、少年時代はこんなに寂しい少年だったんだ。母の姿は見えなかったし、二番目、三番目の母についても一切語らなかった。言いたくなかったんだな、と想像がつく。語ったのは、父についてだけ。

家族、特に父と母には、言いたいことが山ほどあるようだ。しかし、それを今、腹に収めている。それがよくわかる映像だった。多くの人は、これをついこぼしてしまいがち。恩讐の彼方に行ったとき、それを第三者の遺物のように語ることができるで、そのときは、大いに語るといい。それは役立つ素材になる。

少年時代 関連記事 養老 孟司の少年時代 山本寛斉の少年時代 夕暮れは嫌い

☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
   ↓   ↓
人気blogランキングへ  感想コメント↓お書きください

|

« 白人至上主義 | トップページ | 筋金入りリベラリスト 筑紫哲也を悼む »

コメント

( ´_ゝ`)ノボンジュール♪かんさいサン・未来ちゃん感謝企画:かんさいサン替え歌作成中

やまもとかんさいさんファミリー素敵です!
ブログの写真がどれもその人となりを表現していて、オーラが伝わってくる感じがします。
個人的にはエガオバージョンのかんさいサン一番好きです。
未来ちゃんもお美しくなんと麗しい親子でしょうshine
ご活躍を期待しております。
替え歌できたら、事務所宛てに送付いたします。
お時間いただきますが、よろしくお願い申し上げます。

投稿: あど | 2011年8月17日 (水) 07時56分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 白人至上主義 | トップページ | 筋金入りリベラリスト 筑紫哲也を悼む »