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2008年11月 7日 (金)

なかにし礼 作詞家はラブレターから

Img_0504_2Img_0500_3左は平成5年で55歳、右は今年、平成20年は還暦ではなく、古稀、70歳だという。古稀の祝いをして、世話になった人を呼んで、盛大のパーティをしたようだ。出席者は、こしのじゅんこ、高嶋礼子、戸川昌子、菅原洋一、佐久間良子、いしだあゆみ(妻の姉)、長島茂雄など、数多の有名無名の人が集まっていた。徹子の部屋からの感想、記事。

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Img_0498 なかにし礼は、功なり、名を挙げ、押しも押されぬ作家になり、今は世界を船旅で夫婦で楽しんでいる人生であるが、彼の人生は、人との縁、一通のラブレターが「わらしべ長者」のように、才能もあるが、彼を育てくれた。その出会いを全部、消化して自分の栄養にしている点は才能であろう。その中の三人を人生を振り返るように黒柳徹子に語っていた。

最初のわらしべ シャンソン歌手石井祥子

その出発点を20歳、立教大学の学生でシャンソン喫茶のボーイをやっている時のエピソードを淡々と披瀝していた。アテネフランセでフランス語も齧っていた。その喫茶では、シャンソン歌手が実際に歌って聴かせるショーが行われていた。そのとき、石井祥子という歌手が歌っていた。美しく可愛いと思って、想いの丈を綴った手紙を渡した。その度胸というか、情熱があった。

本当はボーイが自店の歌手にチョッカイ出すのは禁じられているはずなのに、そういう行為に走るなかにし礼、この人はどういう神経しているのだろうか。自分の人生にプラスすると考えれば、よその家から枝に実る柿をちょっと失敬、そのぐらいの飛躍ができる人のようだ。チャンスはそうやって得ていくのかもしれない。待っていても、幸運は来ない。

Img_0489 ラブレターを受取ったシャンソン歌手、石井祥子は、センスがあるんだね。若い坊やみたいな、なかにし礼を呼んで、「こんな手紙、失礼だ」とは言わなかった。ボーイである「なかにし礼」はこの恋は実るとは期待はそうはできないだろうことは彼もわかていたのかも、傷ついてもいい、「ヘタな鉄砲も、数打ちゃ当る」くらいの精神だろうか。

「あなたの手紙、詩的で面白い。ついては、訳詩(訳詞)をやってみない?」とヒョウタンから駒だった。失恋の代償に仕事が舞い込んできた。そのシャンソン歌手石井祥子という人は不思議、ラブレターの文章を見て、訳詞ができると思うその感覚は特異だ。きっと若く見えても、かなり歳の差があったのかも。なかにし礼は20歳だった。

日本のシャンソン界は、活動が活発で、フランスから楽譜を取り入れ、ドンドン日本語に訳して歌い広めようとしていた時期だった。アルバイトをしながら、フランス語を習っていたから、辞書があれば、なんとか意味がわかる実力はあったので、引き受けた。

やってみたら、結構評判がよくて、その後、ドンドン仕事が来た。そのころ、ボーイの時給が23円で、一日10時間働いても、一ケ月フルに働いても7000円~8000円にしかならなかった。(黒柳徹子「NHKで一時間56円だったんです」)その当時は、「13800円」というフランク永井のうたが流行していた。大卒初任給が一万円くらいだった。

Img_0488_2 訳詞をやって、一曲で500円もらった。これは肉体労働から抜けられるチャンスだと思った。時給23円で残業しても、生活はそんなによくはならない。その当時住んでいたアパートは、隣りの部屋を二つに分けた3畳の間に住んでいた。こちらの戸を開けると隣りの部屋が閉まるような、構造であった。布団を出すと、ゴキブリがゾロゾロと出てくるので、薬局でDDTを買ってきて、布団を敷いたあとに布団周りにディディティをグルーっと撒いて、そうして寝た。

湿気で波打つような畳で、窓を開けるときは、開けますと言わないと、隣が顔出していると首をはさんでしまうから、要注意だった。夜家に帰ってきてから、30燭光の裸電球の下で、鉛筆なめなめ作詞をした。そして一晩で500円をもらう生活を続けた。このシャンソンの訳詞は注文が続いた。

満州にいたころは、母や姉は東京へ歌舞伎を見に、飛行機をチャーターして出かけるような豪勢な生活をしていた。それが一転、こんな生活は、彼にとっては最低生活であった。まだ満州から引き上げてきた彼には「まだ爆撃されたり、殺される恐怖と比べたら、平和はいい、それだけでもありがたかった、という。

二人目 シャンソン歌手深緑夏代

次のステップは、シャンソン訳詞続けるうちに歌を書くのは面白いな、と思うようになった。自分でも試してみよう、とCBCラジオ放送で募集していた歌謡曲を応募し、それに当選した。

Img_0491 古稀パーティにて それがレコーディングの場に作詞家として呼ばれ、立ち会った。それをレコーでイング吹き込みをしてくれた歌手は深緑夏代であった。彼女には「坊や」と呼ばれ、「坊や、いい詩をかくじゃない」と近寄ってきて「私が訳詞を頼むから、やりなさい」言われたのが、私を育ててくれた縁の人であった。彼女は宝塚の大スターだったが引退して、シャンソン歌手となった人。その時、私が22歳、彼女は37,8歳くらいだった。

その後、深緑さんの歌うレパートリーの訳詞をいくつも手がけ、よくお宅へ呼ばれて行った。そこで教えられたのは、高い音には、「イー、とかウーを入れると、歌いにくいんだよ。イーとやれば、喉にしわもよるし、声も出し難いから、高い音の所は「ア」「オ」を入れなさい」とか、最初、この歌は下向いて、段々上へいく歌だから、その言葉もそれにあわせなさい」と手とり、足とり教えてくれた。なかあにし礼には、ずいぶん勉強になった。それが、その後の歌謡曲を書く上にも、歌詞に役立っている。

僕のまじめだったのは、訳詞のお金は、1000円になり、1500円とギャランティが高くなって、それを全部貯めていたことだ。立教大学を中退状況になっていたを、4年遅れで改めて大学へ戻った。4年間分の学費を払って納入して卒業した。

家賃500円の五反田のボロアパートからようやく脱出して、九段へ映った。芸者の置屋の二階へ下宿する。夜になると、芸者衆が前も隠さず白粉を塗って化粧をする。「坊や、大きくなったら、私を呼んでね」とか「この辺で遊ぶようにならないと、ダメよ」と言われた。朝は三味線の稽古で目を覚ますような場所へ移った。

そして、立教大学へ入り直したころ、シャンソン界のとある女性と恋をして結婚するのです。24歳。そのころは、作詞で食えるようになっていた。

そして 石原裕次郎との出会い

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新婚旅行で下田国際東急ホテルへ行ったら、「石原裕次郎ご一行様」と書いてあるわけ。「裕ちゃんは映画などで見て知ってはいるが、何も緊張する必要はないのに、ホテル内は緊張でみなぎっていた。ホテルへ入ってから、ご飯を食べてから、僕と新妻がロビーに出て来ると、ザワザワしている。石原さんがカウンターに坐ってこちらを見てニコニコしている。そして、僕と目があったら、指で僕を招く区わけ。「僕ですか」と自分の胸を指さすと、ウンというので、彼女と二人で裕次郎の前へ行った。

「何ですか」そして「コンバンワ」と少々間が抜けた挨拶した。なかにし礼24歳、石原裕次郎はその4歳上の大スター。裕次郎は、独立記念の「太平洋ひとりぼっち」の映画を撮って、最後の部分を下田で撮っていたのだ。

「君たち、新婚か」という。「ハイ、新婚です」というと「今、退屈紛れにロビーにいる新婚カップルの中で一番いいのは誰だというコンテストをやっていた」という。そして「君たちが新婚という条件が叶っているから、一等賞だ」と、「一杯やろう!」とビールをご馳走してくれた。

「ところで、君は仕事は何をやっているんだ?」「僕は、シャンソンの訳詞をやっている」僕としては、シャンソンの訳詞なら多少文学的な意味でも歌謡曲より品位があるという気持ちがあった。「枯れ葉よ…?あんな歌か?あんなの、オマエ、くだらないよ。日本の歌を書け。日本人だろう?」と言われて、その言葉にググっときて言い返したかったが、反論しないで「はいはい」と聞いていた。

インテリの自負していたなかにし礼は歌謡曲をバカにしていたが、そこは、顔に出さないで、話を続けていた。石原裕次郎は「いいものができたら、もって来い」「オレがすぐ歌う」わけにもいかないが、協力してあげるから」と言われた。忘れようと思っていたが、頭の片隅に残っていた。「太平洋ひとりぼっち」は命がけで作っているから、必ず見てくれよ。そういわれて封切られてから見た。

堀江青年がハワイ沖でしけにあって、水を掻き出して船を助けたあち、一人きりで短波放送を聞くと村田英雄の「王将」が流れてくる。「吹けば飛ぶような将棋の駒に掛けた命を笑わば笑え…」と言う歌詞を裕次郎扮する堀江青年が吹けば飛ぶようなヨットに掛けた命を笑わば笑え…」と歌って、ホロっと涙を流すシーンを見て、歌っていいもんだな、と感動した。こんなに人の心を感動させ、心に残った歌が書けたらいいな、と思って、歌謡曲を書いてみよう。そんな気持ちになった。単純でしょ、となかにし礼は笑いながら、黒柳徹子にいう。

歌の力はすごいナと思って、自分でギターを弾きながら、一曲作ったのです。シャンソンを書いているから、自信があったのに、それは原曲があっての作詞訳詞だから、創作には役立ったなかった。自身があったと思っていたのに、コリャだめだ、と思うほどだった。

でも、今作れるのは、コレ、この程度しかない、とカセットテープに吹き込んで、石原プロへ持って行った。それが「涙と雨にぬれて」という曲です。石原プロへ行くと、温かく迎えてくれて、そのカセットをみんなの前でテープを回して、ヘタな歌が流れ、本人なかにし礼はいやになっていた。

「まあ、お預かりしましょう」と、通り一遍の言葉を聞いて、ホントに失敗したと脂汗を垂らす気分で帰宅した。それから、翌年、石原プロから電話があった。レコーディングに立ち会ってください、という連絡だった。38年に下田のホテルで石原裕次郎にあってから、一年半ごのことである。

作品は石原プロのヒロケイコというタレント+ロスインデオスが歌うのだった。曲は編曲者が手直ししていて、別の曲のような気分で聴いた。「いい歌じゃないか」と本人が思うほどによくなっていた。それが昭和40年で20万枚、翌年昭和41年に、田代美代子とマヒナスターズでも出されて40万枚。生まれて初めてのヒット曲になった。ヒット賞をもらった。

その後は、60代になって、「長崎ぶらぶら節」で直木賞ももらった。兄について書いた「兄弟」はテレビで放送された。作詞と小説で作家ということになる。

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コメント

はじめまして。
私もなかにし礼さんのファンです。
本日マイブログにつたないながら、なかにし礼さんの記事を書いて、こちらのブログを見つけました。
これから時々お邪魔させて下さい。

投稿: ムーミン | 2009年10月24日 (土) 17時17分

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