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2008年10月 3日 (金)

なぜ浅井長政は信長に滅ぼされたか

Img_2372_2 織田信長の妹お市の方を妻としたほど、浅井長政は信長に信頼されていたはずである。それが、なぜ二人は反目して戦う間柄になったのか。

Img_2394 信長の妹お市の方は、才覚もあり、美女の誉れ高く、信長家臣団の中で、憧れの的であった。小谷城の落城でお市の方が救われると、筆頭家老、柴田勝家を始めとして、特に秀吉は、彼女をなんとかモノにしたかった。秀吉は、織田家の中で足軽から異常に昇進した過程も周知の事実で、市は、秀吉を大嫌いだった。最後、お市は柴田勝家に嫁ぎ、秀吉の攻撃で落城しても救出を望まなかった。

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Photo_3 浅井長政の統治していた北近江は、朝鮮半島からの渡来人が多く、先進知識や技術を持つ人が多かった。縄文時代、弥生時代からの土着の人々多い他の地域より文明開化された土地であったようだ。この地域の田は肥沃で、魚も琵琶湖から取れる。その生産物、魚を京都大阪へ運んで売ることで蓄財できる家が多かった。

また、北近江は、惣村そうそんと呼ばれ、自治の進んだ地域だった。大名が強制的に支配すると、住民は非常に反発した。東西南北を村の入口にして、村全体を囲いの中に置き、警察権、裁判権を村で握っていた。封建大名にとって、この北近江は支配の難しい地域だった。

5dbed9b8_2秀吉に拾われ、小姓(秘書)を経て、関が原の戦いを企画した石田三成も近江長浜の出身だった。彼は簿記の技術をもっていて、経理に明るく才覚があった。近江周辺には、渡来人の子孫が住んでおり、文化度が高いのと、自治の村、惣村そうそんが多いことと関係があるのではないか。尾張の田舎出身の加藤清正や福島正則の武断派とは違う行政能力をもっていたのは間違いない。それが役立つときはいいが、鼻につく態度になると反発を買う。

Photo浅井家と浅井長政から借用 六角氏と浅井氏は同等の立場であったが、長政の父の代に戦に負けて六角氏に臣従する立場になっていたが、浅井長政16のときに、六角氏を打ち破り、ようやく独立の国となった。 長政がこの惣村の多い村を浅井家の領地としてまとめたのは、長政の人徳と治世によるところが多い。

Photo_2 信長には、「浅井長政の治世能力」が魅力であったのだろう。信長とちがって、長政は武力で民を抑えるのではなく、領民に信頼され慕われていた。その才能に信長はほれ、その才が必要と感じたのだろう。それゆえに妹お市を嫁がせて、義兄弟となった。

02_2 その蜜月には、信長は「このたびは浅井氏と組んで 将軍のお供をし 日本を残らず従えたい」(総見記)と長政に語り、信長の意気に感じた長政も、これで北近江も安泰になると、その点で利害が一致した。

24浅井長政24歳は、信長の上京で同行して、京へ道で、六角氏が障害になっていたのを信長がこれを追い払う機会になった。六角氏は長政に追われて、比叡山へ遁走した。従って、京への交通の要衝が自由になった。

京に信長が残り、長政は小谷城へ戻った。信長は、京の将軍を助けて、政治・経済改革を行った。①関所の廃止、楽市楽座で、近江の産物を京都へ運ぶのに関所でカネ払ったり、京・大阪で店を出すのも制限されていたのが、まったく自由になり、経済的な発展が起こった。

Photo_4 今民主党が高速道路の料金をなくすというのは、この関所の廃止と(理論的に考え方は)同じで、経済発展につながる。物が安くなる可能性がある。高速道路料金がなくなればずいぶん利用しやすくなる。高速道路は、建設費を賄ったら無料になるはずだった。外国で、高速道路で料金取るところはほどんどない。

高速道路料金の無料化は、現代の関所の廃止、楽市楽座となる。民主党が政権とると、やっと室町時代の信長のレベルになるわけだ。甘い見かたという人もいるかもしれないが、それができない民主党なら、自民党に戻すのも仕方がない。それが選挙民の意識次第だ。

信長が、事前の相談もなく、越前の(浅井家の盟友)朝倉氏を攻めるという、情報が浅井側に入った。お市を嫁にもらった際、同盟ともいうべき取り決めをしていた。朝倉を攻めるときは一報をもらう約束になっていた。それを秘密裏に決めて、実行へ移すとは、浅井家に対する重大な違反行為であった。

Asakura信長の朝倉攻めは、長政には、苦渋の選択であった。浅井家は、朝倉家とは古くからの緊密な関係であった。織田に味方するか、朝倉につくか、二者択一の苦しい選択だった。信長は、お市の兄でもあるが、朝倉を見捨てることもできない。板挟みの苦しさは、体験しないとわからないだろうが、長政は悩み抜いた末、朝倉に味方して、信長を滅ぼす乾坤一擲のチャンスと決断した。

今、信長は浅井と同盟を結び、長政は手を出さない、少なくとも傍観するだろう、と判断して、信長は油断している。長政は考えた。今を逃しては、信長を滅ぼすチャンスはない。「長政、信長を討って取るべし」(総見記)そこで、織田信長、最大のピンチ、朝倉と浅井の挟み撃ちに織田信長は遭った。

Photo_5信長は、朝倉と浅井、両軍にはさまれた、と知るや、「恥も外聞も考えず」殆ど家来を連れずに逃げた。信長が朝倉と浅井両軍に挟まれたことを、お市の方が両端をしばった小豆枕」を信長に送って知らせた、というエピソードはここである。大軍を置き去りにして、九死に一生、信長は京都へ身一つ、馬に乗って逃げた。残念、浅井軍は信長を討ちもらした。

織田、徳川軍を無事に返すために、殿軍しんがりを務め、名を挙げたのがサル秀吉だった。秀吉は、浅井、朝倉軍から攻撃を一身に受けて、一ケ月もかかって辛うじて逃げて帰った。信長の元に戻ったときは、飲まず食わずの必死の逃走だから、げっそりとやつれていたという。

Photo_6 これで長政は、完全に信長と断絶してしまった。数ヶ月後、信長は体勢を建て直し、北近江姉川に着陣した。信長軍に徳川軍が合流して、およそ3万、浅井・朝倉軍1万3000、元亀元年1570年6月28日、姉川の合戦が始まった。

朝倉へは徳川軍が攻める。浅井軍は信長軍本陣を攻めた。朝倉軍が徳川軍に攻められ後退したので、徳川軍は信長軍の援軍となると、浅井軍が形勢不利となり、長政は撤退して小谷城に逃げ帰った。長政は小谷城に篭城して、信長軍はそれを取り囲むべく北近江に来た。

Photo_7 長政は、 急峻な地形にある小谷城に籠もった。落城をさせられないから織田軍は、手こずった。その間に長政は、信長に立ち向かうべく、近隣北近江の有力寺院10箇所に通達を出して、立ち上がりを依頼した。ご迷惑、御大儀ながら、ご用心くださるように お願いいたす

 その長政通達は、僧侶から地元信者・農民へ伝えられた。そこで、北近江へは侵入占領し、自治を侵す信長軍に百姓一揆で反抗した。浅井長政と農民、住民との信頼がそこで大いに生きたと考えられる。そこで、その騒乱のスキに、長政の浅井軍は、小谷から京を見下ろす比叡山延暦寺に陣を敷いた。

Photo_8 ここから、長政は、信長包囲網を造り始めた。信長軍は焼き討ち、殺人、強圧的な仏教徒たちの生活を脅かす行動だった。現状の安寧を願う一般人、仏教徒には、浅井長政の行政に信を置いていた。信長の革新的な政策、旧守破壊は理解されていなかった明智光秀にしても、浅井長政にしても、人々の安寧は現状肯定の保守思想であった。それを破壊革新するのが織田信長であった。

信長の描いている新しい世界観を理解している人は、殆どいなかっただろう。信長家臣団の多くも、命令を涙を呑んで殺戮を行った。うつけは、旧弊破壊につながる。味方も理解できていない「新しい世界観」実現のために信長は突き進む力があった意味では、天才的な革命児であった。

それを実行する権力・武力を信長がもっていたわけだ。それで、現代に続いたら、今の日本はどうだっただろう。ところが、信長の改革は秀吉で揺り戻しがあり、家康で鎖国までしてしまう。楽市楽座などかなり骨抜きになる。関所は無料ではあったが、人間の自由解放にはならなくなった。

浅井長政の通達効果で、南近江、大阪石山本願寺、長島で一揆が起こった。すると、近畿から各地で反信長の檄が飛んだ。これに応えて益々、僧侶や住民一揆が増えて行った。ゲリラ戦法で、信長の兵力は分断されて、勢いが弱くなった。長政の信長包囲網が成功、順調に広がって、信長は動きが取れなくなった。

Photo_9 ところが、6ヶ月も経った12月になった頃、正親おおぎまち天皇による講和勧告がでた。

遺恨を止めて和睦を朝廷と幕府のため、和睦をなすべきである

これは、長く土地を荒らし、市民に迷惑をかけられない。これは長政の真っ正直な、市民を大事にする性格を読んだ信長の策略であった。天皇や将軍を利用した謀略を用いた。

長政は、天皇の命令は逆らえないと、勧告を受け入れた。合戦を続ければ、秩序の破壊を避けたい平和愛好の長政の考えを信長は読んで、巧妙な手を打った。

Photo_10 長政と妥協したのち、一ケ月後、信長は動いた。まず、南近江に障害を作って、関所封鎖、港の封鎖浅井長政軍が京都へ出られないようにした。これで、大阪石山寺本願寺や長島町の叛徒との接触、援助できないようにした。長政に味方する巨大勢力とを分断して、その後延暦寺の僧侶や女子供を皆殺しをした。

02悪知恵の働く人間は、講和では、だまされない。講和を利用して戦略を図る信長はその最たるものだ。講和は時間稼ぎで、講和といえば、長政は応じてくる。その長政の和平ができた油断、このスキを信長は待っていた。このまじめ一方の青年長政は「講和を信じ、講和すれば、次のステップで平和に近づく」と思う・・・、と信長は踏んだ。信長と長政の差が、延長PK戦のここに現れた。

Photo_11 だまし合い、これが戦争であり、政治だと割り切らないと、信長に勝てない。肖像画はふけて見えるが、浅井長政は29だ。妻お市、長女茶々、次女初、江など子供は信長に返し、浅井長政は、小谷城と共に自刃して消えていく。脚本家田渕久美子が書いた「江」で書いた言葉だろうが、長政は、「そなたと生きられたこと 誇りとするぞ」と小谷城から落ちる市の方へ言葉をかけた。夫の言葉をお市は心に秘めて、兄信長の庇護の下に下った。

浅井長政が、信長の革命を継承して、天下統一をしたら、「たら」は歴史ではありえないが、日本どんな社会になったのだろう。戦国乱世の覇者には、良識の男浅井長政より権謀術数ができる男織田信長が向く長政は地方自治向きか

天正元年(1573年)、長政が自害後、小谷城から長男万福丸は、家臣団によって万福丸は落ち延びたが、信長の探索によって捕らえられた。信長の命を受けた羽柴秀吉の手により、万福丸は美濃関ヶ原で磔(田楽刺しの説も)に処された。しかし、お市の方は「秀吉の指示で殺されたと信じていた。柴田勝家の北ノ庄城で共に救助を求めなかったのは、そのあたりに理由があるという説がある。

浅井長政の長男万福丸10歳当時の感覚なら、今の中学生レベルだった。将来長政以上の才能と人望があると思われたのだろう。肖像画は何も残っていない。浅井長政とお市の方との間に生まれた嫡男との説が有力。ただし、長政はお市以外にも側室を持っていたため、別腹との説もある。

長女茶々は大阪城炎上で豊臣家と共に死んだが、三女江は二代将軍徳川秀忠に秀吉の養女として嫁いでいる。三代将軍家光はお初の子である。浅井家は亡んでも、長政の血は家光の中に脈々と続いている。ちょっと不思議な印象である。

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乾坤一擲(けんこんいってき):(意味)運命を懸けてのるかそるかの勝負をすること。(出典:全唐詩)

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コメント

真面目に民主党が公約を守ると思ってるのですか?別に自民党員じゃないですけど(むしろ、売国自民議員は嫌い)ちょっとお人よし過ぎますよ。それこそ、浅井長政です。
中山さんの発言も失言ですか?歴史を知るのは重要ですが、今の情勢をもっと大きな目で見たら如何ですか?どうにも狭いです。

投稿: | 2008年10月 5日 (日) 04時22分

信長の妹お市の方を妻としたほど、浅井長政は信長に信頼されていたはずである。それが、なぜ二人は反目して戦う間柄になったのか。

投稿: | 2010年12月 8日 (水) 16時50分

 秀忠に嫁いだのは初ではなく、お江です。
もうちょっと勉強してください。受け売りするからこういう間違いするんです。

回答:
指摘 ありがとう。こんな間違いしちゃあいけませんね。  今後とも、ご愛読をよろしく。

投稿: | 2011年1月15日 (土) 20時55分

万福丸はお市の方の息子ではないというのが定説です。年代もあいませんし。長政のほかの息子も殺していません。
 あと、津田信澄などを生かした信長のやり方からいって、市の息子なら生かして利用したと思われます。

管理人から
 NHK大河ドラマ「江」にも、万福丸について言及はないですね。参考意見、ありがとう。

投稿: レイソル | 2011年6月 8日 (水) 07時18分

こんばんは。
あの、浅井長政について調べています。nozawa`さんのブログを見て大変勉強になりました。そこで、どこで浅井に関する資料や文章とか見られるのか 教えていただけませんか。

投稿: レッレモン | 2015年3月12日 (木) 23時17分

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