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2008年9月 6日 (土)

大郷村兵事書類から戦争を見る

10026929395_s   滋賀県大郷村の役場に勤めていた西邑仁平さん、今年103歳、役場では兵事係りであった。18歳で役場に勤め始め、25歳から一貫して兵事係を一人で終戦まで務めた。赤紙(徴兵通知書)の配達から、出征の見送り、戦死者通知等の軍事徴兵の仕事を一貫してやってきた。

  昭和20年8月15日になり、敗戦と共に一切の書類を24時間以内に焼却するように指示があった。
 敦賀管区からの指示は、地元の虎姫警察署へ
来た。大して重要でない書類を焼却して、仁平さんは「焼却しました」と警察に連絡した。
1599 兵事関係の書類は、夜陰にまぎれてリヤカーで全部自宅へ運んだ。以来、60数年、誰にも兵事書類のことは語らなかったが、100歳を越えてから、「
もういいいだろう」という心境になったようだ。(NHK証言シリーズ「こうして村人は戦場へ行った」を参照にして記事を書きました)

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1596  戦争は終わったとはいえ、まだ軍部の権威が頭に残っている時期に、自分の書いた兵事書類、それらの書類を残してやろう、と自宅へ隠してしまった。
 軍部の怖さを知っている人には、この軍の指令に反する行為は、どれほどのものか、知らないわけではないだろう。軍や警察からどういう処分があっても、覚悟はしていた。かなり強い意志がないとできない。
 全国的に見て、焼却するべき公文書を隠したケースは、他にはほとんどない。日本人は正直、バカ正直だ。単独行動であったからできたのであって、複数の人が焼却にかかわったら、できなかっただろう。

1619  昭和12年盧溝橋事件が起こり、それが上海へ飛び火した。陸軍はすぐそれに対応して、中国へ軍隊を送るべく動員令をだした。10万人規模の動員は12年8月24日(午後6時30分)に出されると、
 すぐに金沢第9師団伝達されて、→敦賀連隊司令部→虎姫警察署→大郷役場へ、30人の徴兵令がきた。在郷軍人の名簿の中から名前を書いて送られてきている。

1624 仁平さんは、村長とともに20枚の赤紙を確認して、村の中へ自転車で配達に出かけた。
 陸軍の動員号令かけてから、最初の人、河瀬勇さん(当時23歳)に届くまで、14時間であった。この伝達の速さから、中国戦線へ掛ける思いが、日本全体に行きわたっている雰囲気が伝わってくる。戦争というこの狂気が、国民にとっては、正常な国民意識であり、それ以外の選択をしようとする国民がいたら、「非国民」と指弾されただろう。
 

河瀬 勇
1625 「河瀬さん、召集礼状がきた!」
と声を掛けられとき、河瀬
勇は田の草とりをしていた。
 その声で飛びはねるように草取りの道具を打ち捨てて、走って家へ帰った。すると、村の人々が集まってきた。その夜から二日間は、もう毎日村の人がきて、寝る暇さえなかったので、二晩徹夜で出征になった。その日の河瀬さんの日記が残っている

6時起床。9時前予想通り召集令状がきた。男子の本懐これに過ぎず。海ゆかばの歌あるのみ
 河瀬さん、一度、二年間の兵役を終えて「予備役」になっていたが、当時の青年らしく、日本のために働こうと思っていた。

1627  仁平さんは役場の兵事係として河瀬さんの世話をして、彼は多くの人に見送られ、虎姫駅で「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出てからは・・・」と歌われ、小旗を打ち振り、送られた。
「がんばってきちください」と声掛けてくれるから、高揚した気持ちだ。
 敦賀連隊司令部から、上海へ送られて、無錫
むしゃく、南京へ向かった。召集令状(赤紙)には、切符代わりになると書いてあり、集合地までの交通費は不要である。国民の代表として出征していくのだから、当然だ。

1598  南京へ向かうその間にも、日本兵は中国兵と戦った。何人もの人を殺した。
「私は無抵抗の市民や女、子供は殺さなかった」というが、他の兵隊は、中国人をむやみやたらと殺した。と、南京事件の現場で、河瀬さんは見て証言している。
 気が立っているからか、司令官の方針とは言えないが、無抵抗の人間を殺しているのは、かなり信憑性がある。戦時といえるときは、兵士はそうなるだろう。ただし、南京での死者人数は正確には不明だが。

 河瀬さんの部隊は、南京市へ到達した一番乗りである。それが河瀬さんの生涯の一番大きいできごとだろう。

200pxhideki_tojo 日米開戦 日中戦争は泥沼化し、米英との関係も悪化した。昭和16年12月8日には真珠湾攻撃で、太平洋戦争は始まった。
 時の首相東條英機は
「建国2600年、我らはいまだもって戦い敗れたことはありません。この・・・こそ、いかなる強敵も破砕するのを確信するものであります」
 冷静に聞くと、神がかりな呪文にすぎず、日本の勝つための準備とか、武器弾薬、(国内の)日本人の生活をどう守るか、そんなことは考えていない。今まで負けなかったから、勝てる、そんな強引な論理ってあるか。東條はバカだというのは、こんなとこにあるかな。

1648 西邑孝太郎
 仁平さんと同じ苗字の彼は、別に特技も学歴もないから、一兵卒で終えるつもりだったが、中国人労働者の監督している間に中国語が使えるようになった。
 この特技を上司に見込まれて、憲兵スパイになり、2年満期で現地除隊後、中国人と結婚してスパイを継続するように指示が出た。大隊長から四角い印を押された証書を持って、中国人の家へ乗り込んだ。そこで2年半をすごした。


暗号は、
1647「イ」は、敵部隊の動静を探れ。
「ロ」は、糧抹を探れ。

「ハ」は、作戦行動はどうだ、との指示である。
 部
隊からその連絡がくるので、それに応える。そんな仕事である。スパイは敵陣に信用されてする仕事だから、気疲れが多い。日本は、敗戦という一皮むけてしまったが、ロシア、北朝鮮アメリカ、組織は多少変わっているだろうが、スパイという仕事は変わらず存在している。

 室庄衛(現在83歳)
1656 彼は、親に内緒に中学2年生で海軍の試験を受けて合格した。
 そして昭和18年11月戦艦ながらの乗組員になった。トラック島の基地に配属されて、トラック島から周辺の島々へ物資の物資補給の船に乗っていた。
 
18年12月、ケセリン島に上陸して島へ物資を運搬していたとき、アメリカの急襲を受けた。右前方にうんかの1653ごとく戦闘機が現れた。
 その数、60機は来ただろう。上空に来たとき、アメリカ兵の顔を見えた。その次の瞬間、機関銃掃射の弾が走っていく。
 かろうじて助かったが、近くの人は次々と倒れ、泣き叫ぶ声が「おかあさん!」「おかあさん!」と。
 その声は今も耳の底から聞こえてくる。
数十人の死亡は、手が足りないので、親身内が見たら悲しむような水葬だった。同じ釜の飯を食っていた仲間はみな泣いていた。

1659  一か月後、日本の新聞が届けられ読むと、日本の側は一方的にやられていたのに、まるで日本の勝ち戦のような戦果が書いてあるのを見て、大本営のいうことが信用ならん、そう思った。
 日本では、大本営の立場が悪くなることは、書けない。大本営の発表となると、こうなるのだ。現在も同じで、高級官僚の失敗はタブーだ。

8月15日靖国神社2008年 Ⅰ  小沢昭一が戦中、戦後を語る 兵士たちの戦争 ガダルカナル白兵突撃 兵士たちの戦争NHKルソン島死闘  ルソン島で人肉を食う敗走日本軍  

ある憲兵の記録 日本人のDNA 戦争を知る人たちの記録 ビルマの竪琴(竹山道雄)VTR見る  ベトナム戦争沢田教一の写真から

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コメント

私の父も役場の兵事係でした。村の者は父が家を訪問するのを大変恐れていたようです。赤紙を持って行くか、また逆に戦死の報告ですから、歓迎される訳がありません。徴兵されるのを名誉だと口では言っても、本心は戦死したくないと思っていたでしょう。
父も兵事係として作成した膨大な資料を終戦後自宅に持ち帰り、押し入れに隠していました。その時代ではこの役目を誰かがやらなければならないとしても辛い役目であったに違いありません。本音を聞くべき我が父は50年も前に他界していて聞く事ができません。兵事係だった全ての皆様に心からご苦労様と申し上げます。

投稿: 渡邉昌俊 | 2010年12月21日 (火) 20時40分

渡邉昌俊様
コメント記入、ありがとうございました。
兵事係りの当時の資料は保存されているのでしょうか。
お近くなら、ぜひ拝見させていただき、お話を伺いたいです。資料は日の目を見るようにしたいですね。
ご一報ください。

投稿: nozawa22 | 2010年12月22日 (水) 01時15分

私の父も役場の兵事係でした。村の者は父が家を訪問するのを大変恐れていたようです。赤紙を持って行くか、また逆に戦死の報告ですから、歓迎される訳がありません。徴兵されるのを名誉だと口では言っても、本心は戦死したくないと思っていたでしょう。
父も兵事係として作成した膨大な資料を終戦後自宅に持ち帰り、押し入れに隠していました。その時代ではこの役目を誰かがやらなければならないとしても辛い役目であったに違いありません。本音を聞くべき我が父は50年も前に他界していて聞く事ができません。兵事係だった全ての皆様に心からご苦労様と申し上げます。
投稿: 渡邉昌俊 | 2010年12月21日 (火) 20時40分

渡邉昌俊様
コメント記入、ありがとうございました。
兵事係りの当時の資料は保存されているのでしょうか。
お近くなら、ぜひ拝見させていただき、お話を伺いたいです。資料は日の目を見るようにしたいですね。
ご一報ください。
投稿: nozawa22 | 2010年12月22日 (水) 01時15分

投稿: 渡邉昌俊 | 2012年7月13日 (金) 10時21分

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