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2008年9月 5日 (金)

ポツダム宣言 阿南惟幾VS東郷茂徳

ポツダム宣言を受諾するべきか、戦争最高指導会議で、陸軍大臣 阿南惟幾あなみ これちかの意見が主導していた。そのとき、 陸軍大臣阿南に対立していたのが、外務大臣東郷茂徳とうごう しげのりであった。・・・
 ところで、
ポツダム宣言とは何かわかっているかな?
 ポツダム宣言とはアメリカ、中華民国(今の台湾国民党)および英国(のちにソ連が参加)の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に出した第二次世界大戦(太平洋戦争)の終結(降伏)勧告宣言だ。
 
本日は『その時歴史は』を資料として書いています。

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御前会議に出るような首脳部には、ポツダム宣言を受け入れないと、日本は滅びるという共通認識があった。
 しかし、あの軍国時代の風潮の中で、降伏する意向示すだけで、「非国民、卑怯者、天皇に対する不忠者・・」罵詈雑言、きっと殺されるだろう。

 ポツダム宣言について相談したのは鈴木首相・東郷外相と、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令総長の 6人で構成される戦争に対する最高意思決定機関であった
  強硬に主張するのは、阿南大臣だけであったが、他の軍関係の大臣参謀長も、阿南の主張に沿った意見でいたので、軍人対文官(東郷茂徳)という構図であった。

15371538_2 一番強硬に降伏を回避したいと主張したのは陸軍大臣阿南惟幾だった。

1539_21536 降伏には、「国体の護持」、「戦争犯罪人は日本で裁く」等の4条件をつけると陸軍大臣阿南主張した。
 それに対して、外務大臣東郷茂徳は、それでは米英が承知しないだろうと、条件は1つ「国体護持」だけ、と主張。会議はなかなか決まらなかった。

1554_3 このままズルズル長引けば、日本の被害が大きくなるので重光葵は内大臣木戸幸一に面談して、天皇に聖断を求めようとした。これがきっかけで、天皇の意思がわかり、木戸の意見も変わった。
 このとき問題となるのは、ポツダム宣言に日本として、国体護持1条件のみで受諾するか
阿南主張の4条件をつけて受け入れなければ、本土決戦をするか、この二つで決着がついていなかった。

 天皇は木戸を通じて、「国体護持の1条件でないと、受け入れられないだろう」と判断を語った。
 天皇に聖断を求めるのは、異例中の異例である。と史家の言。天皇は大権を臣下に与え、それを認可するのみ。ま、言ってみれば、天皇は鏡で臣下のやることを単にOKするのが大日本帝国憲法下の天皇の役目であったはず。

連合国からの回答期限が9日であったのが、決着つかないから、シビレ切らしたアメリカは原子爆弾を会議中の時間に長崎へ落とした。この知らせは、会議に参加していた6名にも知らされた。深夜になって、鈴木首相が立ち上がって「再度会議が続けられても決着がつきませんので、異例ではございますが」と天皇の意見を求める。

1568_2 天皇「私の意見は、東郷の意見に賛成だ。」ということで、それでポツダム宣言の受諾することになった。天皇の判断というご聖断をもって、強硬に本土決戦を主張した軍部代表たち、四条件をつけて、それを連合国が認めないなら本土決戦と叫んではいたが、意見は、みんな腹は降伏に傾いていた。責任を免れて、ほっとしたのではないか。部下の血気にはやる連中の前で「降伏に賛成」とはいえない。
 日本の幹部の大方は、こういう決め方でコトが進む傾向がある。責任をとるリーダーがいないように見えて仕方がない。

 阿南陸軍大臣の発言は表に出ているが、米内海軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令総長らの意見はどうなっていたのだろう。
 ミズーリ号での降伏文書に重光葵と共に調印した梅津陸軍参謀総長も「陸軍の後始末ばかりさせられる」と出かける前にグチをこぼしたと伝えられるように、本心は案外穏健な人だが、軍部の中で強硬な意見を言わない限り、立場がなくなる。強硬な意見はそうした内部事情が言わせている。

 軟弱を嫌うのは、付和雷同の大勢の流れ。
 戦時中は、まして「進め火の玉、一億玉砕!」なんて標語がバッコしていた時代に、降伏文書を前に調印するという意見をいうのは、殺される覚悟がないといえないだろう。

 このようにして、外務大臣東郷茂徳は、粘り強く、国体護持でがんばり、重光の裏工作もあり、内大臣木戸の協力で天皇聖断を引き出し、受諾をスイス大使館を通じて連合国へ連絡した。
 日本のポツダム宣言受諾に対して、連合国はラジオ放送で答えた。その付帯条件国体護持については、ultimate form of goverment of Japan 日本政府最終形態は、will of the Japanese people 日本国民の自由に表明された意思によって決定される。
  そういう文面であったので、阿南は「国体護持は不可能であるからとポツダム宣言に反対だ」という。これでまた最高会議は紛糾する。東郷は、「国体護持は認められたとして、ポツダム宣言を受諾」を訴えた。

 ここで重光は「国体護持は、日本国民が望んでいる」から大丈夫であり、それを「天皇の聖断」として言ってくれるように説得したのが木戸内大臣である。

 国民や将兵に降伏を納得させるには、天皇に降伏文書を読んでもらうしかない、と首脳は考えた。これは全国民に14日の午後7時の予定が文書の文言でもめた。「戦い利非ず」だったか、なんかで阿南は噛み付いて。将兵に失礼だ、「戦いいまだ好転せず」に直した。軍上層部の考えているのは、そのメンツばかり。現状の国土の荒廃、戦地の惨状をどう思っているのか、アキレてモノもいえない。そして、翌日、昭和20年8月15日正午に天皇の言葉、玉音放送が四分間流された。

 朕、深く世界の大勢と、帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって、時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。
 朕は、帝国政府をして、米英支ソ四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。

 そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり、万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の挙々おかざるところ。先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。
 しかるに、交戦すでに四歳をけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局、かならずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ、まことに測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか。ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくむは、朕、何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。

 朕は帝国とともに、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に倒れたる者、及びその遺族に想を致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)するところなり。おもうに今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。汝臣民の衷情も、朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむくところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。

 朕はここに、国体を護持しえて、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共にあり、もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。』 (御名御璽) 現代訳等の参考

 敗戦の知らせが一日延びたので、8月14日の夜も、米軍の空襲が日本国全土に行われた。死者二千数百人、ムダな死である。翌朝15日午前10時に霞ヶ浦から、10数機の特攻機が、日本近海の米軍艦隊に向って発進し、戻って来なかった。

Img_1587Img_1586 8月14日深夜、阿南陸軍大臣は、陸軍省内で割腹自殺した。敗軍の将は、腹かっさばいて死ぬ、武士の作法を貫いたつもりか。今後の日本を背負うためには、「生きて、生きて、生き延びて」阿南陸軍大臣は、責任を取るべきだ。いい加減に死んでもらっては困る。

 遺書に
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と書き残し、天皇に謝っている。当り前であるが、目線は国民へは向いていない。辞世の句として
「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」と詠んだ。

 阿南が自刃したとの報が流れた際、鈴木首相は「そうか、
腹を切ったか。阿南というのはいい男だな」と語り、終戦工作を巡って阿南と対立し続けた東郷茂徳は「真に国を思ふ誠忠の人」と評した。
 東郷外務大臣は東京裁判において禁固20年の判決。
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ポツダム宣言を受諾するべきか、
戦争最高指導会議で、陸軍大臣 阿南惟幾(あなみ これちか)の意見と外務大臣の東郷茂徳(とうごう しげのり)とが対立していた。

投稿: 阿南惟幾vs東郷茂徳 | 2012年8月18日 (土) 11時33分

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