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2008年9月10日 (水)

ミズーリ艦降伏調印 責任者の責任

17001753 日本人は8月15日正午に天皇が、ポツダム宣言受諾の詔勅を読んでもう戦争が終わったと思っているが、1755公式の文書に調印していない間は、日本側の宣言にすぎない。 アメリカでは、ミズーリ艦上の調印式の9月2日を「対日戦争勝利記念日」としている。ブッシュ大統領が出席して、楽しそうに祝賀式をやっている。負けた側から見ると、腹クソ悪いが、ブッシュはにこやかに笑っている。

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1698 本日の記事は「その時歴史は動いた」を参考に書きました。

9月2日調印式のギリギリまで、日本側は全権委員を誰にするか、モメていた。最高戦争指導会議のメンバーたち、戦争責任を押付けられてたまるか、と腹で思っている様子が伺われる。戦争推進したんだから、「オレ」が責任をという人がいるかと思ったら、血気盛んな主戦論の方々は逃げ回っている。人間って、こんなものかね。

1733 天皇に結局頼んで、政府代表に重光葵を全権委員、大本営代表から参謀本部長梅津美治郎を指名したが、梅津は9月1日の調印式の前日までイヤだ、と言っていた。まあ、この人より、戦争を引き起こした主戦論者はいたという事情があるにしても、軍部の逃げぶりはみっともない。「いつも、(軍部は)最後オレのところに尻拭いをもってくる」と家族に言っていたという。

1703降伏文書に調印することは、公人としては破滅そ意味し、軍人としては、自殺を意味する」と考えられた。阿南陸軍大臣は、主戦論者と言われるが、自分が表に出たくて出たのではないだろうが、陸軍の代表という意識があったのか、ポッダム宣言受諾が決まった8月14日夜、割腹自殺した。

梅津美治郎、天皇に呼ばれて、「愉快ならざる大任、心中の苦衷を察する これやもえざる所 お国の将来のため 第一歩である。之を終了するも尚 将来にわたり よく朕を輔けてくれ」これを聞いて、梅津美治郎は、重光葵と並んで、ミズリー号艦上でサインをした。

1715連合国から「マニラへ占領のための相談に来てくれ」と、連絡があったので、参謀本部次長河辺虎四郎がマニラに向った。一行が飛び立つと、敗戦を認めない海軍飛行連隊(厚木)の連中が、その一行の飛行機を撃墜するべく、連隊で追跡をした。下手すれば、この飛行機が撃墜されたかもしれない。幸いにも、マニラへ日本先遣隊が無事にマニラに着き連合国米軍に迎えられた。

1723 3日間で連合側から占領軍の先遣隊を厚木飛行場へ向わせるから、準備してくれ、と言ってきたが、準備に日にちがかかる、から23日まで延ばしてもらった。撃墜する飛行機が追いかけてきた現状の日本国内を安定化するには、数日で押さえられない、不安でしかたがない。

国内で最高戦争指導会議のメンバーは、降伏文書の調印でモメていた。日本が自主的に降伏したんだ、ということで、「降伏」という文字が、平たくいうと、気に入らない、と軍部は日本人の心に衝撃激甚大にして、時局収拾至難に陥るから、「降譲」とせよ。こういっていた。内閣では、降伏の「伏」は「人と犬」の関係でから、云々。今考えると、逃げ口上ばかりで、責任感のない話が続く。その挙句が、「降伏」文書で納まっていた。これは「国体護持」の一点を通すために連合国側の気分を害しないためだった。

国体護持の定義が、これが案外フラフラしていたが、天皇が考えるのは、皇室が国民の支持があって存続する皇室制度と考えていたが、軍部らの考えは旧来の明治憲法に立脚する国家像を含めた国体護持だった。

1746 マニラで交渉した足で東久邇首相に相談して、東久邇は天皇に面会して、軍部平穏化を依頼した。それで、天皇の弟を厚木まで派遣した。厚木へ行き、天皇の意思はこうだ、と伝え納得してもらった。しかし、まだまだ戦う気でいる分子が多くいたのだろう。しかし、最終的には、この天皇の弟に「天皇に会ってもらおう」と言われて、納得したという。

1726 私が聞いた話では、降伏に納得しない分子がまだ多くいたので、連合国の先遣隊がくる前日まで、説得を続けていたらしい。そのさ中、上官が不服分子の説得に行って、激昂して、通達に従わない飛行士を軍刀で切りつけた。

1737 背中を切られた兵士が衛生室へ運ばれてきたから治療した、と靖国神社の隣り国立慰霊会場で会った衛生兵だった方が話してくれた。厚木飛行場では、最後の最後まで、戦闘意志が衰えない兵士がいたということだ。激しいやり取りがあっただろう。

1743 先遣隊がきて、マッカーサーの到着する前日に、東久邇首相が、戦争に負けた理由と反省を述べる記者会見した。これも、国体護持を狙って、戦争責任は国民みんなにあると「一億総懺悔」を提唱した。それを新聞は、そなまま垂れ流して、皇室に責任がいかないようにした。国民がお互いにオレに責任がある、私に責任があると言い、それはそれでいいのだが、戦争責任者の責任は別だ。

1742 実際、隣組で縛られ、国家総動員法で縛られ、苦しい生活、赤紙で徴兵でされ、国家の方針に従わされたのは国民市民、その点を棚上げして「一億総懺悔」を強いることで、本当の日本国が他国へ侵略した反省に立つ、指導者の責任が吹っ飛んでしまった。庶民をうまく誘導したコメントであった。

連合国の進駐で降伏に伴って敗戦責任の議論が始まる、天皇の戦争責任、皇室のあり方へ議論が発展する可能性がある。その先手を打って「一億総懺悔」論はその可能性の遮断をし、戦争責任を国民みんなが負うべきもの、そうしたかったのだろう。

17441745_2マッカーサーが到着したのは、8月30日で、厚木から東京まで車で移動するのに、路上に軍隊が警備したが、警察官全員、通行する米軍の方を見ないように後向きに並んでいたという。危害を加える分子がいたら、それこそ、大騒動になる。それを恐れた政府、軍部上官は、不満兵士の不穏な行動を恐れた。

マッカサー一行が日本の占領が始まると、それ以降はおとなしくなった。組織だって反抗する日本人は殆どいなくなった。

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