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2008年9月20日 (土)

反東條運動 松前重義に報復人事

001 昭和61年8月22日(朝日新聞) 平成20年現在、戦争体験ある生き残りの人たちは、当時若かった人たちだ。二十数年前の新聞スクラップ見ると、年齢80代半ば過ぎの人が書き残す、語っている。軍や政治、研究で中枢にいた人の話は興味がある。

松前重義は、ドイツへ留学し、アメリカへも行って、自動車工場の生産ラインを見たりして、アメリカの国力を肌身で知っていたから、戦争すること自体が無謀であると思っていた。松前は、42歳、(後の逓信省)通信院工務局長であった。日本の生産力、工業レベルを上げるために研究する中心人物。局長など高級官僚は勅任官で、赤紙ら解放されていた。天皇の許可がない限り召集されない身分であった。勅任官は通常なら少尉になる。

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それが、突然召集された。昭和19年7月18日、緊急電報で熊本第6師団工兵隊第22部隊へ陸軍二等兵として、赤紙で呼び出された。それは、明らかに懲罰召集だ。

東條内閣は崩壊して、この年、7月22日に小磯内閣が成立している。東條内閣倒閣運動で、中心人物中野正剛が自決しており、それに加わっていた松前重義も、東條一派に目を付けられていた。その東條内閣の最後のあがきだった。

戦局が形勢悪くなった戦場へ追い出して、松前を抹消してしまう意図が感じられた。召集された松前は死を覚悟した。熊本で乗せられたのは、輸送船淡路丸、その船は魚雷や砲弾を船倉に所狭しと積み込んでいた。淡路丸は機雷を一発食らえば、完全に玉砕だ。それを東條一派のたくらみで松前を乗せたとしか考えられない。

淡路丸を含む16隻の船団を組んで熊本港を出た。出港後10日で台湾、基隆港の近くまで来た。そのとき、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けた。そこで16隻の殆どがここで轟沈された。松前の強運は、その攻撃のさ中スコールが降りだして、淡路丸はその雲にまぎれて、米艦の追撃をかわして、基隆港へ逃げ込んだのだった。

他の船に乗った人々は海に放りだされて、海に漂って助けを求めていた。何千人もの人が重油まみれになって漂っているが、護衛の駆逐艦は米軍への対潜水艦爆雷を投下作戦中だから、救助どころではない。機雷が爆発するごとに海に漂っている人が飛ぶ。人命救助は度外視の戦地だった。地獄絵図とは、このことだった。

台湾に上陸できた松前は、台湾総督府逓信部から東京の通信院の友人Sに電話をかけ、海軍内にいる松前の親しい人に連絡してもらった。爆薬船より安全な輸送船へ中隊ごと移るように手配してもらった。ただし、憲兵隊に傍聴されたら、どんな目にあうかわからないので、すべてドイツ語でやりとりした。

松前の乗ってきた淡路丸から、安全な貨物船浦戸丸に乗り換えに成功した。案の定、その後3週間もしない間に高雄港を出たところで、淡路丸は魚雷攻撃で撃沈されてしまった。

浦戸丸を含む12隻で新船団を組み、出航した。この船団も米軍の攻撃にさらされた。台風にあったりして、松前の乗った浦戸丸だけは舵を故障で船団から10日も遅れた。順調に進んだ船団はフィリピンのルソン島近くで米軍の攻撃を受けて全滅してしまったが、故障で遅れた浦戸丸は、それが幸いして、無事マニラ港へ到着した。

マニラに着いて4日目に、南方総軍参謀のT中佐が訪ねてきた。参謀というのは、司令官のそばにいて、実質取り仕切る責任者の一人である。中佐が二等兵を訪ねてくることは、普通はありえないことだ。まあ現在で言えば、重役が新入社員を訪ねてくるようなものである。

「貴殿をよく知っている」といい、「身柄を総司令部付、軍政顧問にする。」東條首相に批判的だった南方総軍司令官寺内寿一元帥の意向もあったのだろう。司令官の許可をとっての申し出であった。「フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、南方全体を視察して、日本軍の自給体制を整備、現地の軍事工場の整備、産業開発の指導をお願いしたい。」

今まで、熊本から共に来て打解けてきた二等兵仲間の戦友から離れてしまうことは身を切るほど辛かったが、南方総軍参謀T中佐や所属中隊長の勧めもあって申し出を受けることにした。T中佐は現在(昭和61年)も健在で当時のことを語っている。

東京の陸軍省に何回も、松前を召集解除にしろ、と電報を打ったが許可を降りなかった。あまりしつこいと、T中佐が陸軍からにらまれて身が危ないと忠告する人まで出た。それで、やむえずフィリピンの南方総軍司令官、寺内元帥に了解を得て、総司令部付になった。

この頃は、フィリピンに米軍が上陸して戦闘が本格化していた。現地では昇格も除隊もできないので、二等兵の身分は変わらないが、軍服はやめて私服でフィリピンのサイゴンから南方各地に飛んで、軍需生産や産業開発の指導に当っていた。T大佐のおかげで、実質的には召集解除になっていた。

科学者の立場から見ると、戦争が継続していけば、アメリカが殺人光線や原子爆弾、レーダー誘導爆弾を開発して投入してくるのは必至だ、と松前は見ていた。その話をT中佐に話すと、「そういう兵器をアメリカより先に研究開発や敵の攻撃に対する科学的な防御の方法を東京で研究してほしい」と語り合った。

1ヶ月半のアジア各地の指導をしてマニラへ帰ってくると、東京の陸軍兵器学校の勤務を命ずという転勤命令だった。T大佐のわが身の不利も考えず陸軍省へ掛け合ってくれた誠意のたまものであった。サイゴンから日本に戻った。

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