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2008年9月20日 (土)

ナゼ東條内閣ニにらまれたか 松前重義

Photo 松前重義は、昭和6年にドイツに1年間留学し、昭和9年に米国のフォードの自動車工場を見学、日本では行われていない流れ作業を見て、日本との生産力の格差をひしと痛感した。彼は、昭和16年12月3日逓信省工務局長になり、その5日後、昭和16年12月8日、日本は「真珠湾攻撃」し、日米戦争を開始した。この無謀に松前は、非常に憂慮した。

昭和61年8月22日(朝日新聞)準拠

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昭和9年に米国から帰国後、軍に連絡して、名古屋の三菱重工など主だった軍需工場を一ケ月がかりで見学した。アメリカとの差が歴然としているのを知っていた松前は、アメリカと戦っても勝てる見込みがない。「これはイカン。早く終戦に持っていくべきだ」と思った。

そのためには、正確な根拠が必要だ。当時の企画院(国家総動員計画の中心)の発表する数字は水増しでアテにはならなかった。海軍省軍務部からも「徹底的に調べてほしい」との要望があった。逓信、商工、農林、鉄道の各省と企画院の若い技術者14、5人に集まってもらって、本当の日本の生産力を調べた。その集まりを生産調査会と称した。

それを佐々木卓夫(元日本電気副社長)が証言している。彼は、企画院から出向、生産調査会のとりまとめ役だった。これらにかかる費用は、海軍の機密費から出ていた。戦後、残っていた紙袋中からたくさんの10円札が出てきた。(戦前は、100円あれば家一軒買えた)物資動員計画は最重要であったから、その調査の実態を海軍軍令部に報告に行くと、その調査の結果を知って、海軍の方々は、「戦争をやっているのは、我々だけだと思っていたが、君たちも戦ってくれていたのか」と涙を流していた。

昭和18年1月に調査結果がまとまった。それによると、鉄鋼、木材、電力、アルミ、石炭など、どれを取っても、アメリカとの比較では、1/10以下である。日本の生産力は益々落ちている状態だった。この状態に目をつぶって戦争継続は無謀であると思った。

450pxtakamatsunomiya_nobuhito 戦争指揮をしている海軍軍令部に説明した。そこには軍令部の一員であった高松宮(天皇家の構成は、長男昭和天皇、次男秩父宮 三男高松宮 四男三笠宮)(天皇家三男)が出席していた。高松宮に「今夜うちに来い」と松前は言われ、二晩宮邸へ出かけた。高松宮は赤線を引きながら熱心に説明を聞いていた。「しかるべき手を打ってほしい」と松前は訴えた。つまりは、東條内閣の退陣である。

この説明が、高松宮から昭和天皇へ伝わって、戦争指導最高会議で天皇の「終戦決断」にいたる判断根拠にもなっている、と推測している。

(高松宮は)、開戦当初から和平を主張して、米内光政等をはじめとする海軍左派や、吉田茂等の政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した。側近の細川護貞によれば、一時は信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていた。が、他方、昭和天皇は宣仁親王(高松宮)のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し、戦後、親王が発表した手記に激怒したともされている。敗戦後は、寺岡謹平海軍中将や第三航空艦隊参謀長・山澄大佐と共に徹底抗戦を主張する厚木基地武装解除の説得に赴いた。ウィキペディア(Wikipedia)

藤岡泰周の証言。当時海軍省調査課大尉(元アラビア石油社長室長)昭和17年頃、松前さんは、「こんな戦力で戦争はできん」と海軍と接触してきた。戦時生産研究会を立ち上げ、熱血漢で憂国の士として知られていた。

Tojousapstrategy18 東條英機の開戦にあたって、ラジオで国民にアピールした言葉がNHK「そのとき歴史は」で聞いたが、根拠のない言葉の羅列で国民をあおり立てていた。「日本は今までの戦争で負けたことがないから、勝てる」そればかりを強調していた。あんな非論理的な指導者の言葉に日本人が踊り、未だに「東條」ファンがいるから、不思議である。

物資の生産、補給を語らないで戦争に突き進んで行った精神構造が指導者としては問題がある。蛮勇が先行して、冷静に考える人間を勇気がない、そういう単純に分類することが横行する。恐喝まがいで軍を牛耳るようになった組織にメスを入れる必要がある。

生産調査会の調べた結果を「生産力研究」として出版したところ、日本の国力を知りたい人が多かったのか、本はよく売れた。その印税で箱根の奈良屋で合宿をした。ところが、そこで松前と海軍嘱託の天川勇の二人同時にチフスに罹患して倒れた。二人が一緒に食事をしたのは、10日ほど前の海軍幹部との会食のみである。10日間の潜伏期間を経て発病したと推測される。これは菌を盛られたに違いない、と確信した。憲兵に松前の動きは完全につかまれていた。

01_01 チフスで入院している間に、当時東方会総裁の中野正剛代議士が見舞いに来てくれた。そして、東條英機批判をぶって行った。夏軽井沢の別荘に呼ばれていくと、鳩山一郎と前首相近衛文麿もいた。「近衛さん、事態は切迫している。何とか打開に動いてほしい」と松前が訴えると「私は薄志弱行でね」(人に恨まれるようなことはできない)と断られた。

10月になって、東方会の中野正剛、三田村武夫代議士と会合しているとき、三田村代議士が逮捕された。そのときは、宇垣内閣樹立を画策しているときだった。東條にうらみを買っていたのだ。その後、中野正剛も逮捕された。しばらくして釈放法されたが、その直後、彼は自殺した。松前も懲罰召集された。その十数日後、翌19年7月になって、ようやく東條内閣は退陣した。

太平洋戦争中は東條英機内閣の方針に強硬に反対して懲罰召集を受け、42歳かつ少将相当の勅任官であるにもかかわらず二等兵として中国大陸の戦地に送られ、その際の経験は自伝『二等兵記』に詳しく描かれている(それ以前にも宴席でチフス菌に感染、重体となっている。やはり反東條の東久邇宮稔彦王とコネクションを持ち、中野正剛と共に働きかけを行なった松前を直接消せない為、病気に見せた暗殺工作であったとする説が有力)。大政翼賛会の青年部の部長も務めていた。戦後、逓信院総裁に就任するも、公職追放で辞職。ウィキペディア(Wikipedia)

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