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2008年8月14日 (木)

小沢昭一が戦中、戦後を語る

Photo 小沢昭一は、秀才お坊ちゃま麻布中にいたのに、昭和19年海軍兵学校(長崎ハウステンポスの場所)予科へ入った。その時は、どうせ兵隊になっていくなら、殴られてつらい目にあうより、殴る側、同期より早めに入って階級が上になっているつもりで入った。麻布中同期で兵学校や幼年学校へ行くものは、殆どいなかった。幼年学校へはなだいなだが一人いるとか。

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0826   昭和19年あたりは、もう学徒動員で工場へ働きに行くとか、防空壕掘りとか、授業もまともになかった時期である。海軍兵学校の予科を募集したのは、兵学校の前一年で勉強を仕込むという海軍側の意図があった。

海軍へ志望したのは、担任教官が、海軍准士官だった。海軍式のクラスで級長は艦長、副級長は甲板長といった。父は新潟県長岡の出で、母校の先輩である「山本五十六さんのようになれ」と口癖のように言っていた。自然、昭一少年は軍国少年であった。 

   小沢昭一の父は、シベリア出兵でロシアへ出征して捕虜になり、病気になり、日本に戻ってきたときは病気がちだった。彼が海軍兵学校へ入学するときは自転車を頼りに駅まで見送り、その時の姿が印象深いと涙を浮かべながら語る。 

0830 昭和19年12月に受験して、昭和20年2月に電報で通知があるのだが、昭一少年は大森の電報局まで行って「まだ電報が来ないか」と聞きにいくほど、海軍兵学校へ憧れていた。しかし、入って見ると、都会育ちの少年には中野生活は刑務所にいるくらいのおもしろいこたとはまるでない生活だった。入った途端、ハーモニカで友だちを楽しませようとしたが、そのハーモニカを取り上げられた。寂しくて、寂しくて、夜トイレに入って歌を歌っていたという。トイレの中で歌ったのは「谷間のともしび

 

黄昏に我家の灯 窓にうつりしとき
わが子帰る日祈る 老いし母の姿
谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは
あの日あの窓こいし ふるさとの我が家
谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは
なつかしき母のまつ ふるさとの我が家
(繰り返す)
 

0827 「仲間は案外平気みたいだった」と小沢昭一がいうと、黒柳徹子は「そんなことはないでしょう。小沢さんが夜寂しがっているように、夜は他の子もきっと悲しんでいたのよ」と年下の徹子さんにたしなめられていた。
  きょうの小沢昭一は、彼のイメージの破天荒なオフザケをしないで、おとなしい。歳を感じさせるトークだ。
  小沢昭一、永六輔、野坂昭如・・・戦争中の大人を子供の目でみて知っている世代、その世代がふけてきていく姿は、見たくないが、それも現実だ。
 

0823youtube2  小沢昭一、永六輔、野坂昭如の三人でトークショーを何回かやっていた。その年も当日になっても、予定通りに野坂昭如が現れない。いつもの遅刻であろうと思って、彼の分を埋めるようにショーを進めたが、彼は脳梗塞で倒れていた。
 野坂昭如、何か表彰の場の
壇上で大島渚を殴って、大島はめがねを吹っ飛ばされて、二人とも気強いから、ケンカになったシーンを見たことがある。大島も小山明子に看護される車椅子の生活である。昭和一桁のつわものたちが、こういう具合に現役から去っていく。それが寂しい。 

0837 戦争を伝えるという意図があるから仕方がないが、お父さんを懐かしみ、涙を浮かべながら、最近、夜寝る前に、仏壇に手を合わせて「今日一日ありがとう」「お休みなさい」と言ってから眠りにつくとしみじみ語り、お父さんの話しをする目に涙を浮かべていた。歳と共に人間は変わる、と説明して「変わるから面白いんだが」と、先の短くなった語り口がどうも気になって仕方がない。もっと人を食ったような話を聞きたい。

 

長崎のハウステンボスの場所にあった海軍兵学校へ入学して、すぐ後、3月10日に東京大空襲があって、家が焼けて、父と母は長野へ疎開してた。そこから母は毎日のようにハガキを送ってくれた。担任教官も長野出身で親しみを感じてくれたようすだった。 

0838_2 沖縄が落ちて、九州が空爆され出した。小沢昭一の逃げる途中、艦載機によって機銃掃射をされて、自分の這っているすぐ横を機関銃の弾丸が走っていった。そして山に逃げていくと、担任教官と小沢昭一と二人きりであった。そのとき、教官が「小沢、さびしいか」と尋ねた。とっさのことだったから、ハイ、さびしいです」と答えてしまった。こんな答えでは殴られるか、と思ったが、「オレもさびしい」と教官も言ってくれて救われた。 

 教官といっても、学徒動員で大学生が戦場に駆り出されて行った人の同期だったので、その意味で小沢昭一の兄貴分だった。このあと、兵学校は長崎から広島防府へ学校が移転した。そこで終戦を迎えることになった。
 
戦争が終わって、一年も経たないうちに、戦前の日本を覆っていた緊張感、それがまったくきれいさっぱり消えてしまった。 

『ニュー・トーキョー・ソング』

Photo_2 向う通るはジープじゃないか
見ても軽そうなハンドルさばき
銀座八丁明るい朝よ、
そなたに、こなたに君に僕、
交わす笑顔に春の道

 ジープでアメリカさん
ハウドゥユドゥ
日本のことばで
こんにちは
 

Photo_3並木路子
(昭和21年3月)[清水七郎作詞、歌:岡晴夫] 岡晴夫の歌う歌は、昭和20年代には、日本中でこんな歌を歌っていた。「りんごの歌」(並木路子)が流行した次がこれ「向う通るはジープじゃないか 見ても軽そうなハンドルさばき」、これだったような気がする。

リンゴの歌【作詞】サトウ ハチロー 【作曲】万城目 正

1.赤いリンゴに 口びるよせて
  だまってみている 青い空
  リンゴはなんにも 云わないけれど
  リンゴの気持ちは よくわかる
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

2.あの娘よい子だ 気立のよい子
  リンゴよく似た 可愛い娘
  どなたがいったか うれしい噂
  軽いクシャミも とんで出る
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

3.朝のあいさつ 夕べのわかれ
  愛しいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日もまたねと 夢みがお
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

4.歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  皆で歌えば なおなおうれし
  リンゴの気持ちを 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

  戦後アメリカの底抜けに明るい文化が流れ込んできた。
 軍国少年小沢昭一も、くるっと向きを変えて、このアメリカ文化に乗り換える。コッチの方が息がしやすいという。みんなが麻布中学で残って学徒動員で働いているとき、海軍兵学校の予科が出来た途端、そっちへいくのは、目端が効く。文系で成績のいいやつで、国に命を捧げる気のないやつは主計学校で生延びようとする。小沢昭一がそうだとはいわないが、秀才はそれを考えていた

 そういう要領のいい、目端が効く、そういうやつが日本の指導者になるのだろうか。凡人はそういう(自分の身柄は安全な場所においた)秀才を指導者に頂いて、それらの指揮に従う・・・、なんか腹の虫がおさまらない。

ウイキペデイア
 海軍兵学校、海軍機関学校には、日本中の俊才が集まった。
 本校卒業後は主計少尉候補生を経て主計少尉(学士入学者は主計中尉)に任官され、武器、弾薬、食糧の補給や海軍予算の編成などを担当した。
 1938年(昭和13年)には軍拡の為に主計科に短期現役士官制(短現と略称される)が設けられた。専門学校・大学卒業の志願者から採用し、海軍経理学校入校と同時に海軍主計中尉に任ぜられ、2年間現役に服した後に予備役に編入されるようになっていた。
 東京帝大(現・東大)、東京商大(現・一橋大)等有名大学の卒業生の多くが(主計将校になれば最前線で死ぬ可能性が極めて低くなるため、兵役逃れの意味合いもあって)志願者として殺到し、戦後の政財官界で活躍する人物を多く輩出することなった(いわゆる短現人脈)。

Tnr0803091155004p1Faq06e09  中曽根康弘 第7期補修学生(元内閣総理大臣・衆議院議員) 下条進一郎(元参議院議員) 有馬元治(元衆議院議員) 松野頼三(元衆議院議員) 山下元利(元衆議院議員) 住栄作(元衆議院議員) 山本壮一郎(元宮城県知事) 松川道哉(元財務官) 徳田博美(元大蔵省銀行局長) 長岡實(元大蔵事務次官) 澄田智(元日本銀行総裁)
濃野滋(元通産事務次官) 杉山和男(元通産事務次官) 河井信太郎(元大阪高検検事長) 伊藤栄樹(元検事総長) 富田朝彦(元宮内庁長官) 山本鎮彦(元警察庁長官) 正力亨(元読売新聞グループ社主) 酒井新二(元共同通信社社長)武井大助(元文化放送社長) 石橋幹一郎(元ブリヂストン社長・会長) 河合良一(元小松製作所社長) 山中清一郎(元三井信託銀行社長・会長) 等松農夫蔵(監査法人トーマツ設立者) 青木大吉(監査法人トーマツ設立者) 神山繁(俳優) 山村良橘(世界史講師) 土井勝(料理研究家)

  それと同じで戦後文化に宗旨替えも早い。生き方上手だな。そして今、有名人になっている。一仕事も二仕事もやってしまったから、凡人がなんやかんや言ってみたところで、どうしようもないが、生きる時には、目端がきく、勢いよく走るエネルギーが必要なんだ。

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コメント

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」
ラジオ番組の愛好者としては、彼の逝去は、何と言ってもさびしい。彼の話術に聞き惚れて時間のたつのも早かった。インターネットラジオで聞いていたが、あれもなくなるのだろうか。

投稿: 小沢昭一 | 2012年12月12日 (水) 23時08分

昨日はシベリアのハバロフスクに抑留された人の体験を聞く機会があって、もう少し調べたくなったのでこのブログに当たりました。
隣に座っていた婦人はソ連兵に暴行されないように女性は全員丸坊主で女性であることを隠していたと聞いて、当時のことを思い起こさせました。私は戦後生まれですが、亡父は広島の原爆を体験していました。また読ませていただきますね。

小島 誠様
 ブログを読んで頂き、ありがとう。
 これからも、
①戦前の日本人が何をしたか、
②戦争ではどんなことをしたか、
③国民がどんな被害をうけたか、
 それらを追究していきます。それを現代の人々の参考にしてもらえたら、ありがたいです。

投稿: 小島 誠 | 2012年12月24日 (月) 11時15分

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