« 8月15日靖国神社2008年 Ⅲ | トップページ | 高校野球スライドショー »

2008年8月17日 (日)

8月15日靖国神社2008年 千鳥が淵Ⅳ

099910001001 そろそろ千鳥が淵戦没者墓苑も見たし、と外へ出ると、掲示板前で話しをしている人が3人いたので、聞くともなしに聞いていたら、パブアニューギニアからの生還者だということがわかり、興味をそそられた。話してくれた人は、群馬県出身、現横浜在住、昭和3年生まれ、田島さん。旧看護兵80歳 ほかの二人は戦争体験者ではなかった。

0969_2 千鳥が淵戦没者墓苑の掲示板、戦闘地域と死者数が書いてあり、人が集まって話しをするには静かな場所だった。毎年8月15日午前11時から12時まで、見知らぬ人同士、話しができたらと思う。靖国神社10:00を参拝して、次に千鳥が淵戦没者墓苑へ参って11時くらいになる。毎年、この掲示板前、この場所でお会いましょう。元気な限り、戦争経験者の方、お話を聞かせてください。

100380歳にしては元気な田島さん。 なぜ生きて帰ることができたか、司令官つきの大佐が米軍攻撃で重傷を負って、現地では治療が出来ないから、本土へ送ることになったとき、医師について看護兵としてとき付き添った。昭和19年(20年?)の早い時期だったが、パブアニューギニア東部の飛行場から、フィリピンマニラ、それから中国の飛行場、台湾、沖縄、九州鹿屋、それから厚木へ燃料補給しながら着いた。厚木に着くと、救急車が待っていて、横浜の病院へ搬送した。

その後、任務を終えた後、現地バブアニューギニアへ戻るつもりだあったが、戦況も悪くなり、飛行機が少なくなっている。これを戻せば、撃墜されることが、首脳部ではわかっていたのだろう、戻すことはないから、ということで、厚木飛行場付きに配置された。

1002 そこで、終戦を迎えすぐ除隊になる。9月には家に帰ったという。その時田島さんは本を出して見せてくれた。衛生兵だから、負傷した兵士を治療したから、という話しには興味があった。

厚木飛行場へマッカーサーが到着する前夜まで、占領軍に攻撃するつもりのグループと敗戦降伏を受け入れるグループとの大激闘が厚木飛行場内であったという。これは、新聞報道、ラジオ放送はなかったから一般に知られていない、と田島さんは、「背中を袈裟懸けに切られていたのを見たのだから」と。

そのあと、厚木にあった貯蔵庫から食料や衣料、その他物資は上官はトラック一杯に荷物積んで故郷へ帰っていった。近隣の人は、リヤカーや荷車を持って厚木飛行場の倉庫の荷物を持って行った。厚木基地周辺の人は、ずいぶん恩恵を受けたのだろう。ここに備蓄されていた品物は、4,5年戦争が続いても食いつなぐことが出来る量だと聞いている。

0990 「8月15日、こんなに暑くはなかった」という。季節が異常になっていることを痛感。「私の経験は、子供達に話していないし、聞かれもしないから」書いてあるものを見て、そんな経験をしたのか、と知ることになるだろう。田島さんは、淡々と語っていた。

1005終戦後、 高栄丸に乗ってニューギニアから引き上げに協力した。それが浦賀港の引き上げ記念館に残っているという。ウエクワから1657名全員戦病者で、湊へ入る検疫待ちの間に毎日死んでいく、それを見ているのはつらいものがある、といいう。

☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ  感想をコメント欄↓へお書きください。

|

« 8月15日靖国神社2008年 Ⅲ | トップページ | 高校野球スライドショー »

コメント

来年の話しになりますが、
8月15日千鳥が淵戦没者墓苑の掲示板で集まりませんか。毎年、この日11時頃に立ち話で結構、戦争の体験を聞かせてください。あそこは靖国神社と違って静で、いいですよ。

戦時中の話は若い人は聞いてくれません。しかし、生きているうちに本当の話を聞かせください。後の世にこの教訓を残したいものです。

投稿: 野沢 | 2008年8月17日 (日) 14時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 8月15日靖国神社2008年 Ⅲ | トップページ | 高校野球スライドショー »