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2008年7月10日 (木)

赤報隊 御一新、年貢半減

2 幕末の官軍は、逃げる徳川軍を追い、今の民主党みたいなもので、徳川軍である自民党を追い詰めていた。追いかける側の薩長は、民衆に人気のある「年貢半減!」と旗印にしたが、財政逼迫して国債を発行しないとやっていけない。そこで、新政府軍としては、「豪商に国債を引き受けてもら代わりに年貢取り扱いの権利を渡す」そういう条件を考えていた。そうすると、豪商には年貢半減は受入れられない。そこが明治新政府のトップは、人気のある「年貢半減!」とは言っていられないと気づいた。背に腹は代えられない。

理想は「年貢半減!」だが、スローガンはスローガン。勝ちが見えた瞬間に急ハンドルのように方向を変換した。現実は新政府には財政基盤が脆弱で、政府作っても持たない。それを首脳は気づいた。スローガンは一種の手段だと割り切った。若い、血気盛んな純粋な人には受け入れらないのは当然だ。

特に公家出身の岩倉具視は、変わり身が早いから、最初に方向転換しただろう。尊王攘夷だって、さっさと捨てている。彼は明治維新の功労者だが、大の虫を生かすには小の虫はだいぶ殺しているはず。口をつぐんでいるが、歴史上の暗い過去を引きずっていると言われている。

夜明け前の解説(高木俊輔)を読んでいたら、藤村の父親が最後、座敷牢で死んだことが、「赤報隊」との関連で解説していた。明治政府の御一新(明治維新)の理想と現実がよくわかった。

歴史の「その時」は、徳川慶喜が二条城から軍艦で江戸へ逃げ出した、そのとき、すぐに官軍薩長が追いかける・・・というときに、組織的に軍を立て直してというと、時間が掛かるので、有志が数十人とか、百人そこそこの部隊を仕立てて、幕府軍を追う。自発的な軍の一番手が「赤報隊」だったわけだ。赤報隊 - Wikipedia

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Photo 薩摩藩の支援を受けて、鉄砲20丁、大砲3門、資金は200万両(私の換算では4000万円)程度を持って、進発していく。その時の隊長が30歳の相楽総三が正式な官軍が行く前に、先遣隊として60名程度で京都から中山道を通って、中津川、馬籠を通る。塩尻から下諏訪に到る道々を「ご一新、年貢半減」というスローガンを人々に知らせながら進軍する。これは、徳川政府には、アキがきているから、大歓迎を受ける。

一応、進軍先々でいかほど寄進があったとか、人々の反応を記した手紙は総督府へ知らせている。本部としては、資金不足で軍を起こせないでいる。その時、財閥の豪商たちは、ヨチヨチ歩きの新政府を信用していないから、金を貸すのを渋っていた。政府の「財政を任せる」という一札を差し出して、今で言う国債の発行に踏み切ったわけだ。庶民農民の生活をラクにしたやるのが「ご一新」が薩長新政府の理想だったが、そうも言っていられない現実に迫られて、方針変更が、「赤報隊」出発した一週間もしないうちに起こってしまった。

これが、一番大きなターニングポイントだった。明治薩長新政府になっても、徳川政府のやることとちっとも変わらない、と庶民が気づいてしまい、期待を裏切る新政府の行動が、期待に膨らむ庶民をぐいぐい押さえ込む行動になるわけだ。こもでも、格差社会を生んでいく。ご一新といっても一新になっていないと多くの人が気づく。

明治政府が政府だから、その事実を歴史の上で教えることは一切ないから、「赤報隊」という言葉を知っていても、中身がよくわからない。特に明治政府と彼らの関係がわからないのが多くの人の思いだ。

ご一新、年貢半減」というスローガンを掲げて、先鋒隊として相楽総三率いる「赤報隊」は、村々で歓迎されていた。年貢半減という呼びかけに賛同して、藤村の家で「半蔵」は先鋒隊に20万両(私の換算で300~400万円)の寄進している。「赤報隊」が処罰された後、半蔵は、福島役所へ呼び出されて偽官軍に寄附をした、とひどく注意を受けている。

概して、「赤報隊」隊員の多くは平田国学に心酔している人が多かったようだ。針路途上で「赤報隊」に加わった人がいる。中津川では、加藤武次郎、加藤次郎吉の二名いた。苗木から4名市岡嘉次郎、植田伝弥、小川市左衛門、松田万兵衛。多分平田国学の学徒ではないだろうか。全体では、160名以上になったが、最後は、下諏訪の新政府の呼び出しに応じて出頭して捕縛され、全員捕らえられ、立ち木に縛り付けられ、首謀者相楽総三を含む7、8名は吟味もなく処刑された。

藩に属しないNPO組織、草莽そうもう軍は、「赤報隊」のあとにずいぶんできたが、組織に所属しないNPO的な志士軍の理想に燃えた行動は、倒幕新官僚たちには、彼らの行動は邪魔になり始めた。新政府の方針は、年貢半減ではなくなったから、総督府は草莽そうもう軍はみんな呼び戻された。統制の取れない行動は偽官軍と決め付けるとか、だまし打ちで殺した。「赤報隊」を名乗る赤報隊の強盗行為の責任を問うたり、理屈つけて首謀者をだまし討ちで制圧した。維新官僚の策略ってすごい。この辺が、新政府側のむごいとことだが、庶民で新政府のスローガン、理想に集まってきた若者をかなり処分している。

処刑時の様子  新政府は年貢半減を取り消すのみならず、年貢半減をさかんに宣伝した赤報隊に「偽官軍」の汚名を着せて逮捕したのである。逮捕された隊員60名は諏訪神社の並木に縛り付けられていた。
慶応4年(1868年)3月3日。この日は前夜から氷雨が降り続く寒い日だったという。赤報隊員は飲食も与えられずに極寒の中を放置されていた。この日の夕刻、8名が町外れの諏訪湖の畔の刑場に連行され、罪人として斬首された。相楽総三は最後に斬首された。薩摩藩のために尽力した者達には、あまりに憐れな最期であった。他の草莽隊も、似たような運命をたどったものが多いという。

半蔵は、社会に理想を実現することを「ご一新」に掛けていた。ところが、インフレが激しく物価は急騰して、徳川時代より生活が厳しくなり、農民の意識も変わり、中津川周辺で一揆が起こる。馬籠あたりからも多く参加していたことに、半蔵は驚く。このとき、わが町中津の庄屋肥田九兵衛(肥田さんの父方の祖先)が尾張藩と掛け合って、かろうじてトガ人を出さないで収めた、と伝えられている。

木曾の森林は徳川から新政府のモノに移っただけで、木曾は相変わらず、米もほどんど取れない、貧しい場所である。太閤検地でも木曾は収穫米はない田と分類されている。貧農地帯である。森林が村の共有地になれば、豊な生活をすることが出来るとその運動を藤村の父半蔵は活動した。その行動が新政府に知られて、逆に庄屋の役職からはずしてしまった。

新政府に建白書をだしたりしたが、政府からつき返されて、半蔵は益々窮地に陥った。精神的に病むようになり、座敷牢のなかで、死んでいく。明治19年のことである。

相楽総三の最後 文字は拡大して読むといい中津川村最後の「庄屋」

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コメント

「資金は200万両(私の換算では4000万円)程度」と「20万両(私の換算で300~400万円)の寄進している」
200万両は200両。20万両は20両では?
bandwyh様
幕末の貨幣価値は、暴落して一両=1万~2万円になっていると考えると、赤軍の資金は200両=200万円~400万円しかなかったということが妥当かもしれませんね。
 調べてからお答えします。

投稿: bandwyh | 2012年9月30日 (日) 08時04分

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