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2008年7月 4日 (金)

幾松という女 志士の女たち

Photo_2 南條範夫の「幾松という女」を読んだ。幾松の桂小五郎を救った武勇伝は有名だ。乞食に身をやつして橋の下にいた桂に食い物をもって行ったなど、話は伝わっている。

名妓必ずしも良妻ならず、という結論みたいに南條さんは言っているみたいで、幾松も所帯もつまではキラキラ輝いていた。桂はヒルの働く顔と芸者と遊ぶときはまるで違うから、昼に夜の顔を幾松が出すと極端に嫌がる。それが、幾松は夜の女だった得 意技を封じられたようだ。男は色気振りまく女はすきだが、概して、自分の女が色気を外に向って発揮するのは嫌がる。桂の神経質なこだわり屋さんのところで、気鬱になっている。それは、結婚は多分に恋愛感情がない生活に覚悟がなかった幾松と淡白な桂の組み合わせがうまくいくはずない。

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Takayoshi_kido_suit 木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士・長州藩士、政治家。いわゆる「長州閥」の巨頭。江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊皇攘夷派の中心人物で薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。名の孝允は「コウイン」と有職読みされることもある。木戸孝允 - Wikipedia

Photo_4幾松芸者時代 恋愛時代はよかったが、一緒になってからは、案外ギクシャクしていたという話、ありきたいな夫婦関係である。幾松の浮気話など、昭和の始めまで、明治維新のことを知っている人が生存していたから、南條範夫はそういう人に聞いている。

ロミオとジュリエットも、恋愛だから光っているが、結婚したら、ボンボンのロミオがわがままなジュリエットがうまくいくはずがない、と作家南條はいう。そこまで、追求しなくても、我慢のきかない男女は、結婚には向かない。あきらめと我慢が結婚には必要だろう。

Photo_3坂本龍馬とおりょう  高杉晋作とおのう 木戸孝允と幾松 相手方が死んでからの所業に問題あり、と衆目の見るところである。伴侶がいる間は、相手の男が威光があったので、そこに納まっていたが、女自身に方針も生き方も決まっていないから、風船球になる。坂本龍馬の「おりょう」なんか、龍馬の死後、横須賀かどっかで再婚相手と暮らしていたが、酔っ払うと「坂本龍馬」の名前を使って啖呵切ってくだまくようなことがあったと小説で読んだことがある。

桂小五郎(木戸孝允)が死んだのは、45歳、妻であった松子(幾松)は10歳下であったといわれているから、35歳。幾松芸者としてどちらかといえば、奔放な生き方をしていたから、夫からの枷が外れた。東京の家は養子の正次郎に任せ、ふるさと京都に戻り、旧友と遊びほけていたといわれる。そのウワサに悩んだ身内の杉孫七郎は伊藤博文に相談した。

維新の功労者である坂本龍馬は、維新が成る前に死んで、妻であった「おりょう」の行状を、高官になった龍馬を知る人たちは、龍馬の威信を傷つけると多くの人は悩んでいた。それを知る伊藤も、長州の先輩木戸が幾松のそういう行状で傷つくのを気にしていた。

そこで、幾松の親や木戸の身内を説得して、幾松を剃髪して、僧院に入れることにした。それで、京都で遊び回ることもなくなったという。その後は、木戸の墓を守って、生涯を終えたという。

心情的には、薩長の志士を応援する芸妓は多かったし、薩長に応援していた気配がある。脱藩浪士と恋愛感情を持ち合うことも、大いにある。華やかな時期を知っている女には、男が活躍していたことがわがことであったから、その花火が消えたのち、空虚であっただろう。京都が沸騰したのは短く、数年で、明治以降舞台が東京へ移ってしまって、女達には明治維新の恩恵がこなかったのかもしれない。

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コメント

えらく古い本を史実のように紹介してらっしゃるので書き込ませて戴きます。

鵜呑みにされてはいらっしゃらないとは思いますが、そもそもこの話は南條範夫の創作であって、史実ではありません。
木戸孝允、木戸松子に関しては『木戸孝允日記』『木戸孝允関係文書』『木戸孝允文書』などを読まれるとよろしいかと思います。読んだ感じは随分仲の良い夫婦に思えますが。

木戸死後、松子が京都で遊びほうけていたので剃髪させたとありますが、5月26日に亡くなった6日後の新聞に“未亡人、剃髪して翠紅院と名乗る”という記事が出ています。夫が死んですぐ遊びまくっていたのでしょうか?

投稿: このみ | 2010年3月 1日 (月) 18時29分

私も結婚後の松子がより大好きなので書き込みさせていただきます。このみさんのおっしゃるとおり『幾松という女』はあくまで小説です。
残されている「木戸日記」と二人の手紙を読むと、二人は亡くなるまでお互いを思いあってくらしたと感じました。松子は一途に木戸を思い続けたと思います。
 日記では、二人でよく出かけてますし、晩年ダイヤの指輪も送ってます。二人で外国旅行も計画してました。政府からの許可がおりなかったのですが、井上聞多夫妻が先に行き、許可がおり次第、木戸夫妻が来ると思って手紙も書いてます。結局木戸が亡くなって実現しませんが。。。

投稿: 通りすがり | 2010年6月16日 (水) 19時23分

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