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2008年7月 3日 (木)

間家の歴史と中津川市

9恩師、間太利先生の家で、一度見せてもらったことがある写真である。本日の記事は、西宮神社百年記念誌(平成7年発行)を参照。

長男が杢右衛門(亀吉=道矩)、次男:三吉、長女:えつ(夫:間五兵衛)、次女:つる(嫁ぎ先三河古橋源太郎)、三女:はん(夫:五島信助)、三男:紋三郎(久野氏へ養子)、四女:いそ(菅井蠖へ)

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02 私の先生、太利先生の父は、九代目杢右衛門次男七助、母が同杢右衛門の妹えつの娘たねである。従兄妹同士で結婚している。つまり、太利先生は、九代目杢衛門の孫にあたる。

私が学生だった時、いつだっか太利先生宅を訪ねた。夏だったと思うが、先生の母さん(たねさん)がいて、「乳がんで乳房を切ったしまった」と、着物の片方を脱いで手術跡を見せてくれた。人前で乳を飲ませる時代を経た人達だから、まあいいけど、おばあちゃんの乳房がなくなった傷を見せてもらった。その印象が強く、お亡くなりになってから、そんなことあったな、と思い出した。

 戦後の間家しか知らないが、江戸時代から明治に掛けての間家の一族は中津の地域を越えて、広域に発展していたのが歴史に残っている。

Photo_4 間家大本の祖先は、京極高次に仕える近江の武士であったという。関が原の戦いでは、三成の針路にあった大津城にいたために落城して、兄矩久、弟矩定は母の縁で美濃に落ちのびた。
 関が原後は、兄矩久は京極家に帰参し、弟矩定は中津川に落ち着いた。武士を捨て、杢右衛門と名乗った。彼は醸造技術を持っていたので、清い水のある中津を選んだとも聞いた。

追記:本家間家の間善衛光延は息子二人とともに、忠臣蔵四十七士に加わったため、間本家は途絶えた。

間喜兵衛光延 はざま きへえみつのぶ 勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。辞世の句「草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙」
間十次郎光興 はざま
じゅうじろうみつおき 部屋住み。間喜兵衛の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。享年26。辞世の句「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」
間新六郎光風 はざま
しんろくろうみつかぜ=
間喜兵衛の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く、江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。享年24。

Photo新町(中仙道沿い)に(現郵便局場所)敷地があった。 中津川へ移ってから、二代目杢右衛門(間家では代々当主の名は杢右衛門)の娘が婿を迎えたとき、この夫と共に商売を始めた。娘の名前がニクというところから、ニク十八で屋号を十八屋と称した
 商いの商品は、白木、白木製品、塩、味噌溜(醤油)の醸造、米、大豆、金融と多角的に経営を行った。木曾地方で取れる檜笠(外での必需品)は十万蓋、塩の扱い高は年間千四百駄を誇る豪商になった。これは江戸時代、尾張藩の御用商人として10人に入る取引高であった。

Photo そこで、尾張藩の「御用商人」としての商標を頂戴した。丸に八では、お殿様と同じでは恐れ多いと、点をつけた八とした。

Photo_2  間家の十八屋が営業していた場所は、今では殆ど跡形もなくなったが、新町通りの藤井金物店から郵便局の間である。
 明治19年の大火事で建物は焼失してしまった。残った蔵から、被災者に米1俵ずつ、困窮者には2俵を贈った。最盛期の十八屋は、その敷地に以前より立派な営業所兼住宅を再建した。庭は、京都から裏千家の吉田宗匠を呼んで、庭を造成した。

火災焼失当時に商っていたものは、鋳物、塩、紙、味噌、雑貨、畳表、鋤くわ、油、馬具、売薬卸、まるで地方の総合商社であった。
 その後、順調に推移して、明治39年には間銀行(場所は、現在の藤井金物店の向え)に資本金50万円で設立した。殆どが頭取の杢右衛門が出資した。支配人は、四男の七助であった。間銀行は、大正5年に十六銀行に吸収合併されるまで営業続けた。

 日露戦争に勝った日本は、明治40年、義務教育を4年から6年に延長した。中津の町でも、現公民館にあった小学校を明治42年、校舎の増築、敷地の拡大した。従来借地であったところを買取り、増築校舎の代金を杢右衛門が寄贈した。敷地代は四千円を明治42年から46年まで毎年800円宛寄贈する形を取った。名誉職である貴族院議員66名中、岐阜県から一名選ばれるところ、間杢右衛門は、岐阜県多額納税者15名中第2位であった。

4  大正元年、十八屋(間家)では、おなご衆(女中)、男衆(下男)を併せると40名以上はいた。奉公が始まって、結婚や独立するまでは、十八屋のシキタリが身につくように同居が決まりだった。上下関係が厳しく、先輩女中が新米を指導することになっていた。

 すべて順調に行っていた十八屋であったが、戦後財産税として新町の建物の多くを物納してしまい、ほとんど十八屋としての痕跡はない。洋館として、岐阜県の第3位の古さを誇る建物は、今間家博物館として公開されている。 間家大正蔵 中津川市

9_2 間杢右衛門の事業として、特筆するべきは、明治39年旭が丘の上に建設された高等女学校である。
 中津高等女学校(現県立中津高校)は、設立順位では、岐阜県2番目と言われている。恵那郡、長野県等、近隣在郷の子女のため、宿舎が完備していた。これは、交通の発達していない頃の配慮がある。これで、中津高等女学校は、恵那郡全域の有為な女子教育の場としての役目を果たした。旧高女としては、40回卒業生を出して、その後は新制度の共学の高校に変身した。

 この旧高等女学校出の人々を母にもつ私の同級生は、七、八人いた。旧高女卒の女性が、先生になり、中津の子弟教育を担っている感じがした。旧高女卒は、6年生時の担任、澤田寿美子先生、中学での担任間太利先生も含めて多くいた。中津高等女学校第25回(昭和8年)卒、健在の方は多いが、昨年は、92歳で友人の母が亡くなった。

 旭が丘の坂を上がると、中津高校(旧女学校)である。門の中に間杢右衛門の胸像が置かれている。また、間博物館にも、杢右衛門像がある。

 丸八別荘として、中村にあった建物は、戦後長く間家の所蔵であったが、今は栗きんとんで全国に名前の知られている「すや」の別荘になっている。

Photo_3丸八別荘 現状は保存されているはず。冬場は池が凍って、子供たちがスケートする遊び場になっていた。
 間家の流れを汲む人々が、中津の政財界で多くの活躍をしているのは、周知のことである。また、人々が、骨身を惜しまず、町の発展のために尽くされている。恩師間太利先生の生徒に接する姿勢からも知ることができる。

 昔の親は、男尊女卑の考え方があって、女は勉強などしなくてもいいと考えて、男の子には、勉強をするように仕向けていたが、太利先生の子供の頃は、女の子ゆえの差別を受けて、悔しい思いをしたとか、そんな話を聞いた。00008 

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コメント

間光延の父光時、間矩久・矩定兄弟の父景矩とともに蒲生秀行の家臣でしたが、蒲生秀行が減封時、リストラ後浅野家と京極家に分かれて仕えたようです。
間本家・・伴廣康-伴家矩ー伴(間に改めた)光矩ー光景ー光家ー光時ー光延、となっています。景矩は光家の弟。苗字が伴のころは足利氏に仕え、京極氏に乗り換えたときから間を名乗っているようです。
なお、杢衛門は杢右衛門に訂正してください。

間家の縁戚に連なる者として、面白く読ませていただきました。

投稿: いちかわ | 2008年7月 5日 (土) 10時34分

コメント拝読、注意ありがとうございました。杢衛門は杢右衛門に訂正しました。また、お気づきの点がありまいたら、お知らせください。よろしかったら、フルネームをお知らせください。
故郷中津川情報に疎くなっていますので、中津のことをお知らせください。今後とも、ブログnozawa22を応援ください。


投稿: 野沢 | 2008年7月 5日 (土) 15時04分

日露戦争に勝った日本は、明治40年、義務教育を4年から6年に変更した。中津の町でも、現公民館にあった小学校を明治42年、校舎の増築、敷地の拡大した。従来借地であったところを買取り、増築校舎の代金を杢右衛門が寄贈した。敷地代は四千円を明治42年から46年まで毎年800円宛寄贈する形を取った。貴族院の66名中、岐阜県から一名選ばれるところ、岐阜県多額納税者15名中第2位であった。

投稿: 日露戦争 勝利 | 2012年4月17日 (火) 17時03分

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