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2008年7月 2日 (水)

空中戦でB29遁走 昭和20年1月9日

東濃一社中津川 西宮神社百年記念誌(平成7年発行)を読んでいたら、戦時中の空襲のことが書いてあった。なにせ、ウチは西宮神社の前だったから、ここに書いてあることがよくわかった。

00006確か、浜名湖は恵那山から真っ直ぐ南にある。 恵那山の上空でB29との空中戦を見ていた話、大人が書いている記録なので、正確だろう。幼児だった私も、これは見ている。十日恵比寿のおみくじ準備をしていた人たちが、その空中戦を浜名湖上で行われているのだと書いているのは、恵那山の上空で見えるのは、つまり直線上で浜名湖になる。

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恵那山の上で飛行しているように見えても、実際は、浜名湖あたりの上空になるわけだ。海沿いに日本軍の防衛線があるだろうから、迎撃するとすれば、そうなるはずだ。B29撃墜の事実は確認できないが、戦闘不利になれば、米軍機は危ない場合は、必死に戦わないで逃げるとは聞いていた。日本軍の場合、逃げるのは卑怯だと思われていたから、身の安全ということは、アメリカ軍の弱さのように受け取っていた。そんな意識がこの記録からも感じられる。

昭和20年1月9日の午後二時頃講員大勢で西宮大祭の準備中、空襲警報発令さるやB29は約60機の編隊にて本土に侵入し、各方面に分かれて空襲に移る。主力を以って名古屋に向かい途中浜名湖上空に於いて空中戦となる。

その空中戦が恵那山・川上(かおれ)の上空に見えB29撃墜のさまも手に取る如く見え、実に壮観を極む。中に敵機2機は中津方面に向って遁走し来り。頭の上と思われる所より真東へ遁走す。

この決戦に当る大祭も盛んに執行できるやを気遣いたるも、10日は晴天にして、風もなく割合に温かく、而して・・(「西宮神社百年記念誌」より)、

名古屋地区は三菱重工の航空機工場(現名古屋ドーム)を集中的に攻撃空襲していた。そこを6波に渡って爆撃して、破壊すると、その後は人口密集地、市街地を爆撃して、市民への被害が甚大になった。この頃は夜中の空襲が多く、中津川市内から南西を見ると、根ノ上高原の空が夕焼けのように見えた。大人は「名古屋が空襲されている」と言っていた。(西宮大神宮の昭和20年、十日恵比寿の記録より)(原文はカタカナまじりの文であったが、読みやすく平仮名文にした

上記記録の時期より半年前から、本土空襲が始まっており、空襲警報が鳴り、夜中起こされて、「昭和町の祖父に家にある防空壕へ行く」と、宮町(恵比寿神社前)から途中で、父にオンブされて、赤くなった空を父と見たのを覚えている。あれが名古屋の大空襲だと思う。

名古屋の空襲は、昭和19年12月13日、昭和20年2月15日、3月12日、3月19日。この中の3月19日は、一夜にして名古屋市民15万1332人が被災し(死亡826人)、家屋3万9893棟が焼失というから、私が見たのは、最後の空襲だったかもしれない。

1944年(昭和19年)7月、サイパンなどマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。同年12月13日、B-29爆撃機90機による、航空機関係の工場である三菱発動機大幸工場(戦後、のちに三菱重工業名古屋工場、現在跡地はナゴヤドーム)に対する初の本格的空襲が行われた。

 天候の加減で、爆弾は三菱重工業の工場に命中せず、その後爆撃を繰り返し6回もこの工場に空襲でやっと壊滅的な打撃を与えた。当たらなかった爆弾は周辺の民家に命中し、民間人の死者を多く出。また、1944年(した昭和19年)12月13日には、名古屋市の東山動物園、治安維持を理由に猛獣類が多数虐殺された。以上、ウイッキペディアからの引用

中津川市には、 この頃から、名古屋からの疎開が多くなり、名古屋工業大学の理学部は、中津川市の南小学校へ疎開してきて、理科室を使った。南小学校の理科室の実験机が分厚い木でできていて、他の小学校に比べて立派だったのは、そのせいである。床はセメントで固めてあった。名古屋工業大学理学部は、何を研究していたか、南小の先生は知らなかったようだ。多分、軍依頼の研究だったと思われる。

1945年頃からは民家への空襲が始まり、3月頃からは焼夷弾による深夜の空襲が多くなった。2月15日には焼夷弾2万発が市中心部の千種の三菱発動機工場周辺に落とされたが、これは3月の空襲に比べればまだまだ小さいものだった。
3月12日の夜、名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、市の5%が焼失したとされる。
3月19日の午前2時頃、爆撃機230機(310機との説も)による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われた。この空襲により一夜にして15万1332人が被災し(死亡826人)、家屋3万9893棟が焼失したとされる。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となった。
以上、ウイッキペディアからの引用

 空爆で1トン爆弾が落ちると、道路に深さ1メートルの周囲25メートルの穴があくと言われた。(名古屋にいた母の証言)空襲のたび、鉄兜をかぶって逃げ回ったそうだ。00008

空襲警報発令 昭和20年中津川市 「負け地震」その夜も名古屋へ大空襲 故郷郷愁専門ch中津川市 敵機襲来すると、警戒警報のサイレンが町中に響く  空中戦でB29遁走 昭和20年1月9日

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コメント

空爆で1トン爆弾が落ちると、道路に深さ1メートルの周囲25メートルの穴があくと言われた。(名古屋にいた母の証言)空襲のたび、鉄兜をかぶって逃げ回ったそうだ

投稿: | 2010年10月17日 (日) 20時52分

西宮大神宮の昭和20年、十日恵比寿の記録より)(原文はカタカナまじりの文であったが、読みやすく平仮名文にした

投稿: 西宮大神宮 | 2011年2月20日 (日) 11時46分

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