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2008年7月 1日 (火)

未来への伝言 中坊公平 筑紫哲也

Kif_0574 写真は、左:筑紫哲也 右:中坊公平

中坊公平(なかぼう こうへい、1929年8月2日 - )は、
1929年生まれ。京都府京都市出身。
1948年 同志社大学(新制)入学

Kif_05511949年 同大学を退学し、京都大学法学部に入学、しかし農業と受験に明け暮れ。
1953年 京都大学卒業、2度目の司法試験不合格。
1954年 3回目にして司法試験合格、翌年に司法修習生となる。
1957年 居候弁護士に。遊び癖が抜けなくて遊蕩三昧、月末は困窮。

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Kif_0553_3 1959年2月 結婚を機会、依存意識を断ち切る為に実家から独立。
同年4月 大阪に事務所を構えるも、残高が預り金に足りない事に気づき真っ青になる。
1960年 債権処理の依頼を受け、工員と経営者を直接指導し、債権者と話し合い、工場再建のメドをつけ、これをきっかけに仕事がくるようになる。
1962年 東京五輪に伴う新幹線による立ち退き問題で、国鉄と直接交渉の場を得る。

Kif_0552 1973年 森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護団長を引き受ける。
1985年 ペーパー商法で破産した豊田商事の管財人に就任。
1990年 日本弁護士連合会会長に就任。龍谷大学で客員教授として教鞭をとる。
1996年 住宅金融債権管理機構 1999年には整理回収機構の社長に就任。
2003年 不適切な債権回収の責任を取る形で弁護士の登録取消届を提出。
中坊公平 - Wikipedia

Kif_0556 中坊公平さん、今見ると、いい仕事をして、主義主張も一家言あり、尊敬できる人だけど、かなりチャラポランで、よく日弁連の会長に押され、多くの有名な事件の弁護士で活躍してきたものだ、そんな感想をもつ。

若い頃、そう勉強できてトップをいく人ではない。浪人して同志社へいき、そこから京大へ編入、司法試験も何回か落っこちて、司法修習生。そこを出るとイソベンで修行、その給料も、飲み食いでスッカラカンに月末になる。独立して事務所をもったはいいが、ちっとも客がこない。依頼者からの預かり金にまで手をつけて決算期になって、青くなて、地元の中小企業の債権処理して工場再建から、信用がつく。

Kif_0561意識はしないにもかかわらず、追い込まれて力出して、軌道に乗る。その後、新幹線騒音問題で国鉄を相手に戦う。次、森永砒素ミルク事件で勝訴して、豊田商事事件、豊島産業廃棄では兵庫県相手に戦う。住専回収では社長になり、弁護士を辞めて・・・とにかく、新聞マスコミで話題になる事件を取り扱って、注目され続けてきた。

Kif_0569 そういう舞台に恵まれて、才能を引き出されて、彼中坊さん、計算は遅い、しゃべりはドモルし、住専回収で一緒に働いた銀行からの出向社員に評されていわく、銀行だったら課長にもなれない人だ、と。中坊さん、確かにマゴマゴしていて、見栄えもぱっとしない。出世するタイプでないヵあもしれない。

昭和20年前後だろう。父が田舎で農業をしているのを手伝っているとき、家の前をリヤカーを引いていく夫婦がいた。それを父がじっと見送って「公平、幸せって、あんなものかもしれないな」という言葉に印象が残っている。父親がリヤカーの前を引き、リヤカーの上に収穫物と子どもを載せ。後を母親が押しているのだった。そこには、何にも代えがたい、家庭の充実があると父に教えられた。そんな話を挿入にしていた。

Kif_0577 それがどうした。中坊公平を世間が求めている。彼の言うことが、今社会で必要なことなんだ。彼はいわく「国民主権というが、国民の一人一人が主体的にかかわる」こと、車両でいえば機関車になる気、客車で引っ張ってもらう気では日本はよくならない。それをいう。彼は、放っておいても、自分がやりだす、エンジンを持っている。

森永砒素ミルク中毒の弁護しているとき、原告団の一人の母親と面接しているとき、「なにが一番悲しかったですか」と中坊が聞くと「うちのタケオは、17歳の生涯で、3つの言葉しかしゃべれなかった。一つはオカア、二つめはマンマ。三つ目はアホウです」意外なことを言い始めた。「生きて行くために、オッカ、マンマ生きて行くための最低限の言葉を言えるように教えたが、最後のアホは教えた記憶がない。世間の人に何回も言われて、タケオが覚えてしまったんです」世間は冷たい、世間が憎い、母親は言う。

中坊公平は涙を流しながら、聴衆に語っていた。これを聞くと、中坊公平のカナダの中から、彼の動力源が見える。こういうことに立ち向かう人のほうが、才能がある秀才でなくてもいい。人間に必要なものは、自分で考える統括主体意識、これこそが必要だと痛感した。

Kif_0578 勉強してそこへ自分で這い上がるエネルギーがある。そういう人間は、多少の瑕疵があってもいい。でっかい人間は、火の玉でぶつかるエネルギーを蔵していれば、いいの。他人が評価するのではなく、自分で動く。そういう人は、魅力があとからついてくる。

このように企画できるのは、筑紫哲也という巨人の存在があったからだ。筑紫哲也の死を知り、多くのジャーナリストは泣いていた。70代前半の死はまだ早すぎる。11月7日

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