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2008年6月27日 (金)

空襲警報発令 昭和20年中津川市

Firebombing_leaflet_2当時の米軍のチラシ(空襲予告)、これを拾ったら、警察に届けることになっていた。所持していると処罰された。
 
今は平成20年だが、昭和20年の昔、今じゃ想像もつかないだろうが、昭和20年6月今頃は、空襲で必死に日本国民は逃げ惑っていた。いつか来た道を歩まないように、「年寄りの冷や水」と言わないで聞いてくれないか。若者は聞きたがらないが、昔話、時々、古い記憶を語ってみようと思う。

太平洋戦争中の(岐阜県)中津川市、昭和十九年から二十年頃、南方諸島を米軍に奪われ、米軍のB29数十機の編隊が銀色を光らせて恵那山の上へほとんど毎日決まった時間に来た。敵機襲来を知らせる警戒警報のサイレンが町中に響き、中津のどこにいてもよく聞こえた。中津川市内は恵那山から流れてくる川の扇状地で両側が河岸段丘で囲まれ、盆地状になっているから、警戒警報のサイレンはよく聞こえる。

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 その日も、警報が鳴ると、小学校へ行っていた兄や姉たちは帰宅させられていた。家族は二階に集まって、窓から恵那山上空を見ていた。朝から天気がよく、恵那山の上はすっきりした青い空だった。恵那山の上空で繰り広げられていた敵機B29の編隊飛行を見ていた。

280pxb29s_dropping_bombs  そのとき、満1才の弟を負ぶっていた小学1年の姉は、B29の編隊を見て、「タク(卓司)ぼう!タクぼう!」と叫んで大慌だった。「帽子(防空頭巾)をかぶせてやって」という意味だったが、大人は平然として、姉は小学1年ながら、弟の命の心配してやっていたのだった。

三菱など、軍需品を製造する工場は中津にもあったが、都市の主要拠点の攻撃に忙しい米軍機から田舎町は相手にされていなかった。だから、警戒警報が鳴ってもの中津の人々は安心していた。

 毎日定期便のように、米軍の編隊は重低音を響かせ悠然と恵那山上空で旋回した。風がない日には、B29の排気で帯状の雲で青空が曇るほどだった。米軍機は太平洋(駿河湾)から恵那山を目印に飛んで来て、名古屋方面へ行くか、東京方面へ消えた。恵那山が岐点になっている、と大人たちは話していた。順次飛来した戦闘機は空に白い航跡をたくさん残して消えていった。

88shiki05 このころには、日本の空軍はすでに弱体化しており、米軍への迎撃はどこからもなかった。高射砲の攻撃もほとんどできなかったから、B29はゆうゆうと飛んでいた。都会で機銃掃射を受けた人は「よく操縦士の顔が見えた」というが、それはB29 ではなく、艦載機といって、小型の空母から飛んでくる攻撃機だろう。中津ではそれはないから、今ならヘリコプターの飛ぶ高さより少し高いという程度を飛んでいたのだろう。

 私の書いている光景は幼児期の記憶だから正確な記録とは違う点があるかもしれないが、お分かりになる方がいたら、ご指摘をお願いしたい。

Sensai昭和十九年八月、ワイショ(祇園場、現在の「おいでん祭」)では、子供たちに「米英撃滅、ワイショ」と叫ばせていた。そして、こんな歌が子どもたちに歌われていた。行列の高張提灯を兄がやっていたので、覚えている。

現在のおいでん祭は、中津川市の主要お祭り、8月の中ごろ1週間に行なわれる。8月13日と14日、提灯行列が小中学生で、ワッショの掛け声で町を練り歩く。中村の八幡神社、駒場の津島神社、北野の中川神社と、町の神社をめぐる。

PhotoPhoto_2 戦時中の提灯行列では、時局柄、こんな歌が流行していた。誰がこの歌を作ったのか、はやらせたか、さっぱりわからないが、子供は喜んで歌っていた。
ルーズベルト(アメリカ大統領)のベルトが切れて、
 チャーチル(イギリス首相)散る散る、
 国が散る、国が散る」。
 その一方で「朝鮮人は哀れなものジャ、一日一銭、紙屑拾い」と侮蔑した歌も平気で歌っていた。

 子供は溝を飛ぼうとしてできないと、戦時中こう言っていた。
「兵隊さんならできる」その言葉は"水戸黄門の印籠"だった。つまり、子供たちは兵隊さんを畏敬の念で見ており、帝国軍人は偉大な存在だった。

00003 或る日、陸軍の1個大隊が西宮神社(オウベッ様)の境内に露営したことがあった。露営していたのは、木曽方面から名古屋へ行く途中の歩兵大隊だった。戦時下であっても行軍中の兵隊を近くで見るのは珍しく、神社の境内は見物人で混雑していた。

名古屋大空襲は、1945年(昭和20年)3月12日、同年5月14日の空襲(名古屋城が焼失)があったその後、に部隊が訓練を兼ねて、歩いて名古屋へ向っていたのだろう。

Dscf0044  兵士は境内で露営したが、将校クラスは、兵士とは別に、市内の割烹旅館に宿泊して、もてなしを受けるのが当時の慣例になっていた。
  これは後年割烹旅館Kの息子に聞いた話である。当時は、牛肉等はないから、この野鳥料理が最高のもてなしであった。海で魚を取れない中津周辺東美濃地方は、
カスミ網でツグミなど野鳥が捕らえられていた。この地方の蛋白源だった。

 家の前の神社境内に大勢の兵隊さんがいるのだから、これほどのイベントはそうない。大人なら長時間眺めているのもヘンだろうが、子供は興味のむくまま見ていた。

 夏過ぎた頃か、まだ明るい夕刻、境内で兵隊たちは食事の支度をしていた。私が兵隊さんの調理を見ていると、突然、班長らしき兵が
二等兵を突然大声で呼びつけた。
「ねぐそー!」
 その先を見ると、一人の兵隊がこっちを向いた。気の弱そうな兵隊だった。社務所の石積みのつるべ井戸で水を汲んでいた。。
 
0511nisimiya051「ねぐそ!」
「ねぐそ!」
 他の兵隊からも呼ばれて、彼は孤立しているように見えた。今でいうところの、イジメられッ子だろう。

多分、寝る前に便所へ行き損なって「寝糞」をしたのだろうか。人格を踏みにじるようなあだなを平気でつける軍隊の日常をかいま見た。ずいぶん気の毒だったが、これが軍隊の異常さ、帝国陸軍の現実だったのだろう。子供心には、イジメの非情さをすぐには理解できなかったが。

 それから一年も経たないうちに、日本は戦争に負けた。
「耐えがたきを耐え......」
 独特の節回しが響き、アブラゼミも安心して鳴いているようだった。

 終戦の詔勅がラジオから流れていた時、大人はみんなラジオの前に集まっていたのだろう。なぜか、幼児の私は一人、(四つ目川沿いの)中津水泳場の辺りを歩いていた記憶がある。私の周り、近くに誰も大人がいない不思議な空間だった。シーンと音が消えたようだった。ただ、ただ近くの家からラジオの玉音放送が響いていた。

 数カ月して、中村にあるわが家の墓の裏に、南方諸島「テニアン」にて戦死、という真新しい卒塔婆、墓標が建った。
00008

戦争の記憶が薄れるご時世 1 
戦争の記憶が薄れるご時世 2
戦争の記憶が薄れるご時世 3 
シベリアの抑留日記  
ソ連兵強姦の現実 手記 文藝春秋 
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戦後満州引き揚げ 故郷への道  
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戦争の影響 疎開、食料など  
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空襲警報発令 昭和20年中津川市 
空中戦でB29遁走 昭和20年1月9日
 

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コメント

名古屋大空襲は、
1945年(昭和20年)3月12日、
同年5月14日の空襲(名古屋城が焼失)があった。
その後に地方の部隊が、名古屋市部隊の支援のため、歩いて名古屋へ向っていたのだろう。その途中、国道沿いの神社で一泊したということだ。

投稿: 名古屋大空襲 | 2013年1月11日 (金) 14時36分

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