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2008年1月21日 (月)

顕正会VS創価学会 近親相争う

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創価学会(公称827万人)は国会議員まで擁して活動しているから、世間に知られているが、顕正会(公称124万人)はまだ国会議員を持たないから、今、さかんに創価学会の勢力を勝とうと活動している。週刊新潮1月24日号に詳しく書かれていた。

冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)は、埼玉県さいたま市大宮区寿能町に本部を置く宗教団体。日蓮正宗から正本堂建立時の国立戒壇の教義解釈が原因で破門された妙信講が母体。宗教法人法に基づく届出名は「宗教法人顕正会」。現在の代表役員は浅井昭衛。月3回、『顕正新聞』という機関紙を発行。

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01 01先日、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」という本が、頼んでもいないのに送られてきた。前は、幸福の科学の大川隆法の著書を送ってきていた。昼間はキリスト教「エホバの王国」の勧誘が回ってくる。郵便受けには新興宗教がチラシを入れてある。なんで、そんなに宗教を押付けにかかるのか、不思議である。近所には某宗教の集会がよく行われている家がある。

創価学会は、今から20年くらい前は、折伏という名のオルグ活動が盛んで信者にするための拉致まがいの信者獲得活動ががんがん行われ、電話盗聴とか、その渦の中に入ったら、人間やっていられない、そんな勢いだった。新興宗教は多くはそういう過程をへて、ある程度の人数になると平和な顔になっていくのだろうが、信者集団を引っ張っていく人物がどういいう方向へ向わせているか、そこが大いに問題である。

今、「国立戒壇」(日蓮宗を国家宗教にせよ!)と主張をして、大きな目的になっている。この目標は、以前は創価学会も同じ目標を持っていたが、共産党がそれを「憲法違反」と追及したことで、当時の池田大作会長が方針を変えたと聞いている。本心はそうではないだろうが、それでは受け入れられないと知ったのだろう。大きな組織にするには、多数の受け入れる意見でないとダメと知ったようだ。それだけ、創価学会は大人になったのだろう。

Photo 顕正会と創価学会とは、日蓮上人の説く教義の信者であるから、考え方がまったく同じである。その信者は、顕正会であろうと創価学会であろうと信念はまったく変える必要はない。相手陣営から引き抜けば、すぐ役立つのである。それで、顕正会が創価学会会員を引き抜こうとしていると言われている。

02 お互いの衝突、数十名で創価学会本部へ突入というシーンは、ビデオにもとられている。このビデオは、富士大石顕正会被害救済ネットとあるが、創価学会系の人が撮ったのか、と思われる。その視点から見ないと、顕正会の主張は十分わからない。

日蓮宗は、日蓮が鎌倉時代、蒙古襲来に際して、幕府に鋭く主張した。創価学会にしても、顕正会にしても、そのDNAは今も脈々とつながっていて、主張がきついのが特徴だ。きっと内部には、良識的な人もいるだろうが、先鋭的な主張しないと、軟弱とか、日和見とか、お決まりのつるし上げを食らうだろう。

日蓮宗の強い自己主張の先鋭的な姿勢は、日本人にしては違和感がある。浄土真宗の教義「(悪人正機悪い者ほど救われる」「(他力本願)生かされている」という遠慮がちな物言いとは、かなり隔たっている。もともと釈迦の教えから出発しているのだから、根本では同じはずだがね、人間がつくる会派となると、これが、難しいんだね。

顕正会の被害から「救済するネット」というのは、多くは創価学会会員が素性を隠して開いているのが多いという。またまた、こんなのにひっかったて苦しめる。まるで多重債務者を食いもんにする高利貸しみたいな手段を弄しているようだ。

顕正会は以前「日蓮正宗妙信講」と言っていた時期に、どんな宗教かわからないから、誘われるまま、集会へ行ったことがある。だいぶ古い話であるが、三十代の講師が黒い和服を着て坐っていた。非常に自信あふれた弁舌で、講演は立て板に水、そんな感じで語っていた。あれが若き時代の浅井氏だったと思う。相手の反論は全て切り捨てるだけの勢いがあった。

顕正会の姿。YouTube創価学会作成

YouTube顕正会青年部が創価学本部の門扉を越えて、乗り込む姿をニュース風に伝えていた。

日蓮正宗妙信講とは、いっさい言わないし、言ってもわかるものでもない。私も行ってみないことにはわからないと思ったが、これ、一度行って仲間になると、きっと抜け難いのだろう。ま、それが付け目だろうが。一度ターゲットとして連れて行ったら、逃したらハジだとか、責任だとか、組織の上から折伏するように必死にさせるだろう。

誘ってくれたのは、20代の印刷工であった。アルバイトで某株式新聞で一ケ月働いたとき、彼らに「宗教興味ある?」と聞かれたので、その当時YMCAの学生寮にいたから、YoungManChristianAssociationといえば、キリスト教であるから、宗教に無関心でいられない。よって「興味ある」に○つけたようなもの。

真夏だったが、彼ら二人、職工で働いているときは汚い作業服だったが、仕事終えると、ぱりっとした背広に着替えて出てきた。行ったのは護国寺と音羽町の角にある寺に連れて行かれた。夜6時過ぎにいったら、もう部屋には40名近い人が坐って、浅井講師の話を聞いていた。

浅井講師は、有無を言わさないような力のこもった話し振りであった。議論や討論ができる雰囲気で育った私としては、彼の独裁者的な雰囲気は受け入れがたかった。姿勢とか自信はそれなりの評価するが。

 浅井氏の講義が終わったあと、夏休みの計画が海の家を借り切って二泊三日のお楽しみがあるようだ。青年部だろう。女子も2割3割は前の方に坐っているようだった。まだ教義の講義をして、勉強の雰囲気もあった。まだそれほど戦闘的な組織にはなっていないという感じではあった。

大学寮の住所は教えていなかったが、その後、私に誘ってくれた職工の二人が、その後連絡のない私を探して、私の叔母の家へ訪ねてきた。あのまま、妙信講へ通っていたら、折伏され、今頃、顕正会の幹部で創価学会突撃指示をする側だったかもしれない。

教義及び折伏と称して行われる勧誘活動の方法が折伏大行進を行っていた時代の創価学会と似ている。 近年では、内部での上下関係や絆が厳格で、折伏の容易な警察、自衛隊関係者の中にも顕正会員が増加している。マスコミ報道などで横須賀や習志野、三沢、千歳の部隊に多いとされている。

機関紙「顕正新聞」には「法戦」と称される期間(概ね一ヶ月~四ヶ月単位、年数回)毎に、折伏成果(入会会員数)が記載されている。創価学会員や他宗教の熱心な信者だった人物ををが入信した場合、大々的に誇示される。

伝統的に女子部が活動の主体で、高校生、大学生等若い男子会員数の増加を目論んだ活動が、首都圏の多くの高等学校、大学等で波紋を呼んでいる。冨士大石寺顕正会側では『これらの動きは、創価学会員の家族などが学校側に働きかけているケースが多い』と言った反論を、具体例をあげつつ顕正新聞などで行っている。ウイキペディア引用参考00008_2

nozawa22: 真夏のアルバイト 2  他力本願と悪人正機説  親鸞「他力本願への道」

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コメント

結局在日部落集団です!キリスト教や浄土真宗や在日宗教や共産党、民主党、自民党は全て在日部落集団です!宗教より人種!創価が前に出るだけで全て在日部落集団です!宗教では無いnote

投稿: フェミニン君 | 2008年11月28日 (金) 20時26分

結局明治天皇すり替わりsign02だからこんな国smile

投稿: フェミニン君 | 2008年12月12日 (金) 04時19分

なぜ破門になったか宗門より「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し…」と。細井管長も池田大作も「国立戒壇」を唱えていたではないか!阿部管長は言う「戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇である」本門事の戒壇の本義なる悪書に書いている。日寛上人曰く「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し」寿量品談義におおせです。阿部管長は己義を構えた魔僧ではないか!妙法比丘尼御返事に曰く「法道は面にかなやきをあてられき、此等は皆仏法を重んじ王法を恐れざりし故ぞかし」宗門は世間の批判を恐れて学会も共に国立戒壇を捨てるに至り正本堂を御遺命の戒壇と偽り全信徒を欺いた。国立戒壇はひとり日興上人に付属された日蓮大聖人の御遺命である身延山付属書に「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は悲法の衆たるべきなり戒壇の大御本尊の「秘蔵」も無視し御遺命にも背く今の宗門は「悲法の衆」師敵対の輩ではないか!世間の批判を恐れず御遺命を奉ずる団体は顕正会以外にはない。

投稿: ロック | 2009年1月21日 (水) 19時37分

創価学会は、今から20年くらい前は、折伏という名のオルグ活動が盛んで信者にするための拉致まがいの信者獲得活動ががんがん行われ、電話盗聴とか、その渦の中に入ったら、人間やっていられない、そんな勢いだった。新興宗教は多くはそういう過程をへて、ある程度の人数になると平和な顔になっていくのだろうが、信者集団を引っ張っていく人物がどういいう方向へ向わせているか、そこが大いに問題である。

投稿: | 2010年9月12日 (日) 17時27分

 創価学会も顕正会も、元は日蓮正宗の信徒団体でした。既に破門されていますが。日蓮宗(身延山)と日蓮正宗(大石寺)は日蓮没後すぐに、五老僧に従うか日興に従うかで別れた全く別の宗派です。彼らを日蓮宗徒のように称するのはやめていただきたい。日蓮正宗はいわゆる新興宗教ではありませんが、日本の仏教の中では教義的にかなり偏っているように思います。創価学会や顕正会はその独善的な部分をさらに肥大化させた新興宗教です。彼らの間の争いは全くの内ゲバですので、君子危うきに近寄らず、が正しいのです。

投稿: | 2010年9月22日 (水) 22時35分

「唯我独尊」は仏教語と俗語で全く異なる意味が在ります.。
 沢山の宗派が在る日本仏教で、俗語の家の宗派以外は仏教ではないという唯我独尊的仏教は仏教ではない!

管理人より
 一般人には、「唯我独尊的」の意味もわかりませんし、主張の趣旨が通じていません。すくなくとも、私にはわかりません。わかりやすい言葉でお願いします。

投稿: 仏サンテーリア教祖 | 2011年6月 8日 (水) 15時25分

端的に言うと、創価学会は創価学会以外は仏教ではないと公言して居り、其の特殊性として、日本の宗教は、全般的に神道と仏教、或いはそこに道教や儒教がまじりあった神仏混交、神仏習合が特徴で、其の中で、どの要素を強調するかで、教団の在り方が変化するが、現世利益の実現を中心とした信仰が特徴で、祖先崇拝的な要素が含まれて居る事が多い。ただ創価学会の場合には、教育団体として始まったという特殊な出発で、修験や霊的な信仰、祖先崇拝の要素が欠けて居るところにもっとも大きな特徴がある。創価学会が長く外護してきた日蓮正宗の信仰には、深夜に祈梼を行う丑寅の勤行や日蓮の遺骨を「お肉牙」として崇拝するなど、秘儀的な要素が見られるが、日蓮正宗と決別した創価学会の信仰にはそうした面は見られない。合理性を特徴として居るから、戦後の社会風潮に合致し巨大教団に発展する事が出来たとも見ることもできる。

投稿: 仏サンテーリア教祖 | 2011年6月 8日 (水) 17時06分

はじめまして。
創価学会・顕正会に対論と破折をしている法華講信徒、樋田昌志氏のサイトです。
ニコニコやYouTubeではかなり有名な方です。
http://toyoda.tv/ ご覧あれ。

たかゆうき様
樋田昌志氏のサイト 見ました。もう少し砕けたコメントだと、親しめると思う。

投稿: たかゆうき | 2012年4月11日 (水) 08時44分

 久しぶりに会った会社の元同僚が、顕正会の信者になっていた。
 彼に無理やり誘われて、顕正会浅井氏のビデオを見せられ、著作を読まされた。あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失った。

 なにしろ、浅井氏を含め、信者達は日蓮さんの教えもろくに知らないどころか、彼らが毎日唱えているお経の内容さえ知らないのだから・・・。

 さらには、彼らはキリスト教やイスラム教を邪宗とか外道とか言っているので、それでは教会に行ったり聖書を読んだ事があるのか?と聞いたところ、まったく知らないという返事だった!
 さらに驚いた事は、彼らは、日蓮聖人の「立正安国論」では~と口にするのに、肝心の「立正安国論」を読んだ事がないと言う!
 さらに、彼らは平気で
「今は末法の時代で、釈迦の法力も失せた。」と!そして、お釈迦様の教えを知らないどころか、見向きもしようとしない。
いったい、彼らは何を信じているのか?

 そもそも、彼らが毎日一所懸命唱えているお経とは、すべてお釈迦様の教えや行いを書いたものであるのに・・・。
 また、彼らが唱えている「南無妙法蓮華経」とは、「お釈迦様が説かれた百蓮華のように美しく正しい教えに帰依します。」という意味であるという事をまったく知らない。

 そして、日蓮さんは「立正安国論」の中で、「今こそまことの仏の教えに立ち返れ!」と論じている。日蓮さんが言っているまことの仏とは、お釈迦様の事である。だからこそ、「南無妙法蓮華経」なのである!

彼らは、毎日唱えている「法華経」の中には、お釈迦様=永遠の仏であるという事が、はっきりと書かれているのに・・・。
 彼らは盛んに「成仏、成仏」と言って、極楽浄土に生まれ変わるには・・・と、まるで浄土宗の信者みたいな事ばかり言っていた。
 日蓮さんは、死んだ後の極楽浄土よりも、今現実に目の前で苦しんでいる人達を救う事こそ、坊主の役目であり、自分が仏から課せられた使命であると言っているのに・・・。
 
 ところで、私は若い頃にはよく新興宗教の人間に無理に誘われて、彼らの話を聞かされたり、キリスト教のプロテスタント教会やカトリック教会、さらには創価学会の集会に参加した事もあるが、すべての宗教の信者達に共通している事は、彼らのほとんどすべてが自分達の都合の良いように、神や仏の教えを捻じ曲げて解釈しているという事だ。

 そして、本当の信仰とか信仰の厳しさを知らないという事だ。本当の信仰とは、神や仏の教えが正しいと思うから信じる。
 そして、神や仏の教えが正しいと信じるから、どんな事があっても神や仏の教えを守るという事だ。
 そして、神や仏の教えとは、常に周りの人達に思いやりの心を持ち、周りの人々に喜びや希望、そして幸せを与える事であるという事である。

 キリスト教では、さらには愛を与える事でもあると言っている。そして、どのような状況におかれようとも、周りの人々に喜びや希望、そして幸せを与える事ができるような人こそが、本当に幸福な人間であり、そのような人間になれるように努力する事こそが、真の幸福の追求であり、真の信仰であるはずだ。
 だから、イエス・キリストは次のように言っている。
「汝らは、徴(しるし)を見ねば信ぜぬ。しかし、徴を見ずとも神を信じる者こそが幸いであるのに。」と。

 つまり、人々は神や仏に無病息災を願い、病気の者は病気が良くなる事を、何か揉め事や悩み事を抱えている者は、その揉め事や悩み事が解決される事を願うが、例えそのような願いが叶わずとも、神を信じ、神の教えを守って、周りの人々に喜びや希望、幸せ、そして何よりも愛を与える事ができる人こそが、真に幸福であるのに・・・と言っている。

 しかし、特に新興宗教の信者達は、そんな事も知らずに、ひたすら神や仏に自分達の幸福を願ってばかりいる。

 求めるのではなく、どんな状況におかれようとも、常に周りの人達に与える事ができる者こそが、真に幸福であり,真の信仰者であるという事をまったく知らない。

 例えば、やがてはホームレスとなって、野垂れ死にする運命であったとしても、神や仏の教えを守り通し、周りの人々に喜びや希望、幸せを与える事こそが真の信仰である。
 こうして見ると、真の信仰とは実に厳しいものである。
 お釈迦様が言うには、その厳しさを乗り越えたところに、涅槃の境地があると・・・。
 しかし、宗教をやっている者たちのほとんどは、この信仰の厳しさというものを知らない。

 最後に、お釈迦様の次の教えを記して終わりにしたい。
「私の教えのとおりに行わないものは、私に会っていながら私に会わず、私と一緒にいながら私から遠く離れている。
 また、私の教えのとおりに行う者は、たとえ私から遠く離れていても、常に私と一緒にいる。」           「仏教聖典」より

投稿: dokokanoyotaemon | 2013年6月23日 (日) 03時26分

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