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2008年1月10日 (木)

その時歴史は 将軍吉宗誕生秘話

8216ヒロは、読めないし、書けない厄介な文字だ。近衛 熙子このえ ひろこ、1666年(寛文6年)- 1741年(寛保元年)は、江戸幕府六代将軍徳川家宣の正室。夫の死後落飾して天英院と名乗る。

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この女性天英院は、江8222 戸幕府の大奥へ入って、苦労をなめるのは44歳で、夫が犬公方綱吉のあと将軍に指名されてからである。

なぜ、将軍に選んだかといえば、甲府藩の財政を短期間に立て直したという実績が将軍家の目に叶ったのだ。犬公方といわれた綱吉で放漫財政を立て直すために、堅実な行政手腕の知事を首相に選ぶという流れである。その流れが、「正徳の治」吉宗とつながる。

8251 山梨県甲府の藩主で36万石の大名だった。天皇家の血筋から近衛 熙子(後の天英院)が嫁いできた。二人の仲は良好だったらしく二子(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けるが、夭折してしまう。夭折では、側室月光院に生ませたのが七代将軍家継、この子は5歳くらいで死んでしまう。

このころ子供が早死にするのは、現代の学者達に説では、乳母たちが胸まで白粉オシロイを塗っているから、乳児が白粉オシロイを授乳のさいになめてしまうからだ。この白粉オシロイに鉛、亜鉛が含まれているから、中毒になりやすかったのではないか、という。江戸時代では、科学的な知識がないから、森永砒素ミルクのような状態が起こっていたのではないか。そういわれると、そうかもと思ってしまう。

大奥というのは、一つの官庁である。現在は日本の代表を選挙で選ぶから問題ないが、徳川家の代表である将軍は生み育てる役目があった。ゆえに、ニワトリの孵化と同じように受精と妊娠、養育する官庁が必要であった。大奥へ将軍以外入らないことで、将軍のDNAだけを次代へ引き継ぐ役目が果たせるのである。そこには、受胎可能な若い女性を待たせていた。

8254 将軍となって江戸城へ入ってからは、甲府時代とは異なり、大奥に入ると夫婦は親しく生活はできなくなった。大奥の掟、30歳を越すと「お褥シトネご辞退」、つまり「将軍と床を共にしない」ことになっていた。既に正妻熙子(後の天英院)は40歳を越していたから、昼は中奥で執務する夫将軍家宣と会えない、夜は将軍の仕事はお世継ぎ作り、で妻、正妻熙子は、大奥で君臨してはいるが、夫将軍家宣と会えない状態が続いた。

8234 夫には、4人の側室が与えられ、その中の一人於喜世の方(後の月光院)が子を生む。七代将軍家継を生むと、正妻より、側室が生母として力を持ち始める。正徳2年(1712年)に六代将軍の夫家宣は病により没する。熙子も剃髪して院号を天英院と号する。

_8217 夫の死後は、熙子天英院は大奥から退いて西の丸へ隠居できるはずだったが、夫の遺言で、七代将軍家継が幼少であるから、後見人を頼むと言い残したので、大奥に残った。

側室月光院は生母として力を持ち始めて、正妻天英院とは不仲であった。御年寄にして月光院の腹心であった絵島(当時34歳)月光院の代理で徳川家の墓Cc5293参りへ行き、その帰り、芝居見物に興じて、当代人気俳優を酒の席に呼び、一行と親密なときを過ごした。予定の時間を6時間も過ぎて、江戸城に戻った。天英院は、これを期に老中達を動かして、月光院と側用人・間部詮房マナベアキフサ、新井白石らの権威失墜を謀った。絵島は信州へ流罪、大奥と町方をあわせて1500人が処罰された。nozawa22: 絵島囲い屋敷 幽閉生活30年

しかし、その後は月光院天英院との仲も良好になった。

8256 大奥の庭で花見を催した際、風邪気味の家継を月光院が連れ出したら、風邪をこじらせて倒れた。1716年(正徳6年)4月将軍家継危篤となった。徳川家継が病気で危篤状態になり、月光院は嘆き悲しむばかりで、何もできなかった。しかし、天英院は冷静に振舞い、月光院を励ました。年齢の差もあるが、能力的にも、差があるようだ。

8239 七代将軍家継の危篤にあって、徳川将軍の空位が起こってはいけないと、各所に動きがあった。尾張家、紀伊家、水戸家から将軍候補が上がってきた。それぞれの支持者たちが工作してきたが、一向に決まらなかった。日一日と、家継の容態がわるくなって、早く決めないと、困る状態になったとき、天英院が動いた。

8245天英院は「先代将軍家宣様の御遺志です」という切り札をつかった。「家宣様は、事あるごとに、自分の方針に近いのは吉宗だ」と言っていた、と側用人を集めて納得させた。紀伊から吉宗を呼びよせ、将軍職を継ぐように説得した。吉宗は最初は固辞したが「家宣様の御遺志です」と押し切った。それが、「その時歴史が動いた」1716年(正徳6年)4月29日である。

天英院のこのあたりのことの運びは、相当の政治家でもなかなかやれないものだ。小渕 恵三さんが脳梗塞で倒れたさい、「小渕さんはこう言っている」と言って次の首相を決めた人がいた。それで首相は森さんに決まった。それに似たワザを使って七代将軍家継死亡の前日に決まった。

8228 天英院は、女らしく気配りのできる人でありながら、決断力がある。本当は深窓の令嬢だった人だったのに、甲府の大名夫人で何事もなく一生過ごす人が、夫が六代将軍になったがゆえに、大奥の責任者になり、それから世継ぎをめぐる争いに巻き込まれ、吉宗を将軍にして送りだすことになった。

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