樺太の真岡電話局 最後の放送
樺太の真岡はもともと人口2万の町であった。
8月16日夕から本土への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航していたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。(全文引用)
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真岡への攻撃は20日早朝に始まった。数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけた。
引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。
樺太の真岡電話局には電話交換手の9人の若い女性たちが、引揚げの指示を断ってまで、市街の惨状を報告し続けるために現地に残留していたが、そこにもついにソ連軍が侵入。
9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、市街の惨状を報告し続けた。だが、そこにもついにソ連軍が侵入・・・
今も詩吟「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のようであった。
「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さん、さようなら、さようなら」
9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残された。
樺太に 命をすてし をたやめの
心を思えば むねせまりくる
からふとに 露と消えたる 乙女らの
御霊安かれと ただいのるぬる。(全文引用)
ソ連軍の兵士が悪いとか、日ソ中立条約を破棄したソ連に文句言えという前に、戦争を知らない人が多すぎて、過去の戦争がどんなものであったか、それを知ってもらいたい。その一環の作業として、紹介している。
あの時のことは、何故忘れ去られたのか?13/13
http://youtu.be/GB7fosAv3t8 ★★
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コメント
14日からの旅行で北海道・利尻・礼文に行って来ました。 バスガイドさんのお話で、恥ずかしながらこの事件を知り、感動しました。
このような同胞愛を持って電話交換に従事していた乙女たちを想うとき、胸が熱くなります。
齢80を数えた今の私には、既にあの世に旅たった姉たちや、アッツ・キスカの作戦に従事した兄たちに感謝を捧げたい気持ちがいっぱいになります。合掌
管理人より
いい旅をなさいましたね。こういう話を聴くと、犠牲になった女性や戦闘員に同情を禁じえません。日本が強く、日本は勝った、という結論になればいいのか。平和のあり方は難しいです。
投稿: ぶんちゃん | 2011年7月19日 (火) 13時45分
「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さん、さようなら、さようなら」
投稿: 真岡電話局 | 2012年8月25日 (土) 20時22分