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2008年1月 8日 (火)

「夜明け前」の中津川で 心中事件

Photo 添い遂げられぬと知った堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が死んだ「曽根崎心中」があるが、中津川市にも、江戸時代の末、添い遂げられない事情から若い二人が死んだ、心中事件の記録が残されている。週刊誌もテレビもない時代では、相当話題に上ったことが、大黒屋日記に記録されている。

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1852年(嘉永5年)二月十九日、大黒屋日記(馬籠宿大脇兵衛門)に書かれている。大黒屋日記は「夜明け前」を島崎藤村が書いたとき、資料とした日記だろう。

Img_9012中津川田丸屋せがれ篤太郎22歳、近所の綿屋の娘とねんごろにいたし居候ところ、両人共家出し、東逸墓所にて情死」と書いてある。田丸屋は、今曽我家、以前は肥田家(中津の庄屋)の家、かつ宿場随一の旅館であった。東逸墓所は、高札場から苗木へ抜ける飛騨街道にある。そこに墓場があり、そこで心中した。

旅籠田丸屋(本町、現在は曽我家)は、中津川村の庄屋の肥田家である。肥田通光(みちてる)は、平田国学門人で、俳人でもある。幕末、市岡殷政(しげまさ)、間秀矩(ひでのり)らと共に幕末の難しい時局を乗り切った。特に木曽で起こった一揆を尾張藩との間に入って、穏便に治めた業績は大きい。旭ヶ丘に句碑が立っている。俳号は馬風。夜明け前では、小野三郎兵衛となっている。

02arekore 死んだ娘の名は、綿屋の娘としか出ていない。遺書が数年前に発見されたということで、報道された。家のしがらみ、病に冒され、死を見つめて書いた遺書である。

かきおきの事、御まえ様、おりおり~御いけん申し下され候だん、ありがたく存じ候」と遺書の宛名が「おみち様」となっている。相談相手は、幼いころから世話してくれた町内の菅井嘉兵衛の女房である。現在菅井家は多く分家されているが、中津川では名家の一つ。文化勲章の日本画家前田青邨の血筋に当る家。おみちは名家の奥方、当時の教養がある女性だっただろう。(平山郁夫は前田青邨の弟子である。)前田青邨 - Wikipedia

菅井家に出入りして、可愛がってもらう綿屋の娘という彼女も、それなりの家の子であったとわかる。賢くて器量よしという想像が成り立つ。

別れるようにおみちは道理を尽くして説得したようである。「御いけんにニしたがい、思い切るつもり」でいたが、篤太郎と別れようと、逢って話しているうちに、どうしても思い切ることができず、「こういう事に相成り候」と書く。別れに逢って、また燃え上がり、前途を悲観して心中を決意したのである。障害があれば、あるほど、二人は突き進む。

Nakat1御いけんにそむき候だん、いくえにも御ことわりも申さず(不申候)、此ようなわけニ相成り候も、これまでの寿命御あきらめ下されべく候」としか申し上げられません。「私事もよそながら御いとまごいニもまいり度存じ候へど」と思っていますが、「なニかととりまぎれハ申し候間、是又御断り申し上げ」であります。「ちちさまへも御いとまごいニハよまいらす候間、御まえ様よりよろしく御断りおき下さるべく、書きおきを御らんニ入れ、よろしく御ことわり下さるべく候

Nakat11おみち様には幼きころより可愛がって頂きましたこと、相果てた後にも、忘れることはありません悲しきことばかりニ候事あとさきになり」と娘は混乱しているようである。「よきように判読してください」「後々のことは、なにぶんにもよろしくお取り計らいくださるよう、お願い申し上げます。かしこ おみち様

現代風に自殺の理由を分析すると、この場合、娘が不治の病に冒されて、嫁には不適と考えられたのだろう。倅も憎からず思っていたが、家の嫁としては迎えられないということか。

死に際して、挨拶していないと盛んに言っている遺書も、今の時代から読むと、不思議。二人で家出してどっか他所へ行ってしまえばという選択肢がない時代、この土地で生まれたら、この土地でしか生きられない時代背景がある。

江戸時代は、明治以降の高度成長時代とは違い、平穏な平和な時代であると、よく言われている。鎖国の良さでもある。その代わり、職業選択の自由、住所移転の自由がなかった。一生同じ職業、一生同じ場所に住むことが決まっていた。一番幸せは、「}にあった生き方だと言われた。自分の職業、自分の地位にあった生き方が、「」である。

「百姓の分際で」「町人の分際で」というときの「」である。要は、江戸時代の身分制度、日本式なカースト制度かもしれないが、こうして身分で縛り付けておくと、社会の平穏が保てた。人々は、「」不相応な高望みをしないから、平々凡々に生きていける、と考えたのだろう。失敗のない生き方かもしれない。

相談相手だった「おみち」も、「」にあった生き方を勧めただろう。それに一時は従うつもりでいたが、若い二人の衝動が死へ衝き進んでいったのだろうか。資料が少ない中では、想像するほかない。

」に留まりきれないで、それを打ち破る情死、心中が多くなることは、体制維持に支障が出ると見る為政者もいて、これを禁止している。心中や情死では人々が憧れが出るということで、言葉狩りをして、心中の代わりに「相対死」という言葉を使うようにした、と読んだことがある。

江戸時代の若い女性が漢字かな混じり文章が書けたのは、素晴らしい。教養のある女性だったことが伺える。

 心中は、相愛の二人が一緒に自殺すること。情死。転じて2人以上で一緒に自殺することにも用いる。正確な英単語はなく、日本独自の死生観と言われる。
 心中とは他人に対して義理立てをする意味で用いられていたが、江戸時代には、刺青や切指等の行為と同様に男女の相愛を意味するようになる。情死を賛美する風潮が現れ、遊郭で遊女と心中する等の心中事件が増加して社会問題となる。
  幕府は、心中は漢字の「忠」に通じるとしてこの言葉の使用を禁止し、相対死(あいたいじに)と呼んだ。心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」として葬式、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした。1722年には心中物の上演を禁止した。『ウィキペディア(Wikipedia)』

中津川の事件が、馬籠(大黒屋日記)で取り上げれていることは、落合、坂本、付知や美濃福岡、美濃坂本、大井でも話題になったのだろう。150年前、「夜明け前」の中津川では、心中「情死」をなにかと話題にしたことだろう。00008

中津川村の「夜明け前」 歴史の鼓動

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