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2008年1月30日 (水)

ルワンダ紛争 ツチ族 フツ族

ルワンダ紛争で民族間同士の殺し合いがあって、多くの難民が生じてブルーシートのテント村が広がっている写真を見るが、一体原因は何か、どうなっているのか、日本人でわかる人はマレである。フツ族、ツチ族の違いさえわからない。参考ルワンダの涙 残虐さから考えること: ホテルルワンダ 支配人 狂気の体験

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農耕業が主だったフツ族には貧困が蔓延していた。逆に遊牧業が主な生業であったツチ族は、牛を多数所有するなど比較的豊かであった。
しかし、白人による植民地支配がはじまると、この対立に目をつけ、[鼻の大きさ]や[肌の色]
などを基準にその境界を明確にした。そして、ツチ族は「高貴(白人の血が混じっているというデマを活用)」、対するフツ族は「野蛮」であるという神話を広め始めると、ツチ族とフツ族は大きく対立し始めた。Wikipedia引用 実際は、日本人と韓国人、日本人と中国人より区別しにくく、映画の中で、「フツ族?ツチ族?と確認するほど区別がない。

Photo_3 ルワンダのことを知ったのは、歌手京一夫さんの旅行記ボランティア日和」という著書を手伝ったことによる。左右対称である芸名京一夫さん、「じゃがいもの会」森進一のボランティア活動に対抗してというと角が立つが、困った人々への支援活動をやっていた。

出版プロダクションの依頼を受けて、私がそれを本にまとめるため、インタビューして、文章にまとめるゴーストライターのお手伝いをした。

アフリカのソマリヤ、ルワンダの内戦が国内から難民が流出して、あちこちに難民キャンプができた京さんはその「難民キャンプ」への歌の慰問活動をしていた

 ケニアに着いたら飛行機利用すれば、数時間でルワンダのキガリに着く。ところが、京さんは、車で行った。慰問品の食糧(米粉ライスミール)の運送という理由であるが、京さん、アフリカを車で走って接したかった。が、そんなに考えるほど甘くはなかった。

 途中、ホテルに宿泊中にクルマ泥棒に出あったり、悪路でパンクしたり、ケニアのセレンゲッティ自然公園の近くの道路ではヒョウがいたり、なんだかんだの数週間の旅で、ルワンダに行った。

腹を壊したら、猛獣、毒蛇、毒グモの危険を冒して、木陰、草むらの自然の中で排便をしなければならない。必死で体調を崩さないように努力して、やっとルワンダへ着く。それでも、現地の水を唇につけた程度だったが、下痢に悩まされた。

01 最初、このボランティア日和へ係わるとき、「フツ族」「ツチ族両民族が、なぜ争わなければならなかったのか、基本になる背景が理解できなかった。これをわかりやすく説明する記事が少ないから、「かわいそう」とはいうが、場所が遠いし、どうも同情が持続しない。

0203 私流の解釈で説明すると、ルワンダは、最初ベルギーの植民地で、主に「ツチ」族が支配階級として利用して統治していた。その構図は、セイロンスリランカでイギリスが、少数のタミール族で国内の多数派のシンハリ族支配に利用するのと似ていると似ている。植民地支配する先進国は、支配しやすくするために、対立構造を作り出し、「分割」してしまう

第一次世界大戦以降はベルギーの植民地であったが1962年に独立を果たし、少数派民族であるツチ族を中心とした国家が成立した。

独立以後続けてきたツチ族による支配に反抗した多数派民族であるフツ族を中心とする勢力が1973年にクーデターを起こし、逆にフツ族がツチ族を支配することになり、ツチ族はルワンダ愛国戦線(RPF)を組織して、ウガンダを拠点にフツ族のハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発

1993年8月にRPFの猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日にフツ族のジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されたことに端を発して、フツ族によるツチ族の大量虐殺(ジェノサイド)が始まり、一説には約100日間で国民の10人に1人、少なくとも80万~100万人が虐殺されたとされる。

1994年7月にRPFがツチ族保護を名目に全土を完全制圧し、フツ族のパステール・ビジムングを大統領、ポール・カガメを副大統領(現大統領)とする新政権が発足紛争は終結したWikipedia引用

02 第二次世界大戦まで、ベルギーの植民地政策として、「ツチ族」を利用して、多数派の先住民族「フツ」族支配をしていた。85%の「フツ」族は農耕の民で小柄でおとなしく、15%の「ツチ」族は、背が高く知識があるとされている。たとえが悪いが、縄文人と弥生人の差のように、後から来た人のほうが新知識をもっている。

文化的には、2民族の差はほどんどない。宗教、言語、風俗等に違いはない。その差別は、植民地支配のために、人為的、政治的に作られたといわれている。

「ツチ」族支配で、ルワンダは平和であった。中央高地のルワンダは、夏涼しく、冬暖かく、アフリカの軽井沢と思われていた。アフリカの国々の中でもっとも収入が豊な国だった。

京一夫さんが見てきた話では、メイン通りはゴーストタウンで、ビルの壁面は弾の痕がものすごく、撮ってきた写真で数えたら、1平方メートルあたり200発から300発もあった。道路の花壇になっている場所は、遺体を埋めたあとだった。

生きのびた人の頭がなたで割られて、大きな傷跡をつけた人があちこちにいる。傷を見るがけでも、ぞーッとする。それが幼い女の子だったりすると、悲しい。教会に逃げた人を一気に殺すとか、いろいろエピソードがあちこちにある。

食料難で栄養不足が、戦後の困難がある。死ぬのが日常の難民キャンプを回って、歌手京一夫さんは、瀕死の女の子にギターを弾いて歌を聴かせた。その女の子は嬉しそうに聴いていたが、翌日亡くなった。

2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだったポール・ルセサバギナの体験を下に、映画「ホテル・ルワンダ」が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。 また、「ルワンダの涙」という映画も公開され、日本でも2007年にDVD化されたWikipedia引用

「ホテルル・ワンダ」は、一般商業映画としては、流通していないが、今岩波書店の映画館で上映している。事件があった当時、特命大使として、信愛学舎の高倍氏が在任中でこのときご苦労をされた話を聞いた。高倍氏、その関係で、「ワンダの涙」のパンフレットの解説を書いている。

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コメント

納得

投稿: SB3 | 2008年11月14日 (金) 10時43分

私も「ホテル ルワンダ」と「ルワンダの涙」を見て‥こんな私でも何か出来るかも‥と思い 今勉強中です。
来年にはルワンダの方に行く予定で居ます。
37歳で、やっと見つけた?生きて行く道だと思って居ます。
ルワンダで最期を迎えたい‥と言う気持ちで一杯です。

けして‥甘くみてる訳じゃなく、心からただ笑顔がみたいだけ‥「沖縄出身の私だからか‥他人事じゃないのかも‥

すいません‥コメントとは,程遠い書き込みになってしまいました(汗

投稿: 平田義子 | 2010年5月24日 (月) 14時21分

ケニアからソマリアへ海賊船長と

投稿: | 2010年7月14日 (水) 02時22分

ホテルルワンダ 支配人 狂気の体験

投稿: ホテルルワンダ | 2011年4月 3日 (日) 22時00分

つい最近なんとなくBS放送を見ていて、偶然目にとまった映画がこの「ホテル・ルワンダ」でした。たまたまチャンネルを変えた際に見ていたら目が離せなくなり、大きく心を揺さぶられました。同じ世代や若い学生さんたちにもぜひ見てほしいです。

投稿: 大学生 | 2011年10月26日 (水) 10時23分

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