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2008年1月12日 (土)

昭和20年代の稲刈り、田植え

Photo 私の家は、田んぼを祖父の代に買い集めた新興地主であった。現代に当てはめて言ってみれば、少し小金をためて株式に投資をしたようなものだろう。その田んぼを小作に貸し付けて、年貢米をもらう。

大正の末から昭和初期にかけて、購入した田を広げて、自営米屋の倒産保険の意味があったのだろう。祖父は、安定収入を目指していた。田んぼでなく、山を買っていれば、終戦と共に、農地解放と共に消えてしまうことはなかった。小作をやっていた人には、借りていた農地がタダ同然で自分のものになるのだから、ずいぶんトクをした。それが戦後のインフレで高騰して、大金もちになった。

わが家では、小作の人が不要だとした田んぼで稲作をした。それでも、3反から4反の広さの田畑は残った。自分で耕作する分だけを農地解放から免れた。

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郊外にある子野の田ん圃は、山に近く、冷たい水がしみ出る場所で稲作には不向きだった。小作の人が自分の田にしたがらないところだから、残ったのだろう。

Photo_2広い良い田んぼは、一反歩くらいのものだった。普通一反の田では、三俵くらい米が取れると大人が言っていた。そのころ昭和20年代末は、田んぼ仕事を知っている人は多かった。ウチの父は、田んぼ仕事は苦手だし、後妻の母は都会育ちで、田んぼに入ることは嫌がっていた。市街地に家はあったが、それでも、田んぼもやるようになったし、ニワトリも飼って、豚も飼っていた。うさぎも飼った。そのお陰で、子供の仕事が多かった。

02中学生になり、労働力として使えるようになると、稲刈りシーズン、田植えシーズンには駆り出された。まあ、子供が働くのは、昔はそれが当たり前だった。田植えには、列が乱れないように糸張って苗を植えて行く。子供では遅いから、大人がその前後をカバーしてくれた。田んぼの中は静かだから、田植えしながら、子供にいろんな話をする時だった。

「出世して、田んぼで稲刈りや田植えしたことは、いい経験だ」「尊敬される」とか、これは、母の言葉だったが。妙に教訓めいたことを言っていたなァ。案外、こういう働く場が、親から子への意思伝達の場になるのかもしれない。

01 ウチの本業は精麦会社だったから、その従業員を日曜アルバイトで依頼していた。ウチでは昼の弁当やお茶菓子を提供して手伝ってもらうのがシキタリだった。山本さんは器用な人で、本格的な作業小屋を建ててもらったり、中の煮炊きの場所に薬缶を掛ける仕掛けを作ってくれた。人件費が安い時代だったので、今思うと、気の毒なくらいの費用でお願いしていたと思う。山本さんは寡黙で、プロフェショナルという印象が子供心にも思った。

20040925 普段腰を曲げて作業することはないので、田植えは腰をまげて作業するから、痛い、痛い。あんな非能率な作業はない、と子供ながら思った。ウチの田んぼは、小さくて、機械を入れることは殆どできないだろう。機械と米の値段を考えたら、田植えは機械化はありえないと思った。こんな米もできない田んぼはつぶして、アヒルか、動物を飼えばいいとひそかに思った。獣医科へ行った三兄は、牧場としてここに動物を飼いたいといっていた。

秋の稲刈りも、中学から高校まで、毎年駆り出された。親自体がそう農業に熱心ではないから、大体子野の田んぼへきて作業開始する時間が遅い。始めるのが昼に近い。手伝いの人も、そう自分チの仕事ではないから力が入らないだろう。したがって、稲刈りが終わりになるのは、どうしても遅くなってしまう。

Dakokuうちの脱穀機はこんな感じだった。  一週間か二週間、イネをハザに掛けて、脱穀する。動力の機械はない。足踏み脱穀機でやるのだから、大変だ。このころ「精麦会社」に勤めていた高木さん、西尾さんが手伝ってくれた。高木さんは向えのシゲちゃんと結婚したが、体格もよかったし、一番働き手だった。責任感があった。高木さんが、足踏みの脱穀機でイネから籾殻を取った玄米にした。ニ兄と高木さんは、シゲちゃんをはさんで、恋敵であったのかもしれないが、脱穀の仕事は一緒にしていた。

02_2 脱穀機の周りは米粒が飛ばないように網が被せてある。脱穀は、乾いた田んぼの上にムシロを敷いて、脱穀機を置くと、そこへハザからイネの束を外して運ぶ。これが子供の仕事である。脱穀した米が下に出ると南京袋に詰め込む。これはオヤジの仕事だった。一生懸命にやっていたが、それが、なかなか終わらなくて、あたりは暗く、月が頭の上まで昇って、ようやく終わった。

それが午後9時近かった。なんや、こんな時間か。風呂に入るのもソコソコ、勉強なんか二の次、三の次。明日学校へいく身には辛いものだった。農繁期、ミソつくりの時、父は私に学校を休ませて、手伝わせた。昔の親は、それを子供に強いて、当然な態度だった。高校二年の時、麹ムロ(室)は駒場新田にあったので、登校時、学校へ行く生徒と顔会わせながら、学校とは逆方向へ行くのは、少年の心には残酷だった。父としては、母を手伝わせられないから、私にお鉢が回ってきた。

中学の時、英語の助動詞、意志未来 単純未来という勉強を教えた日に休んだので、その部分が妙に欠落感があったのを覚えている、今はアメリカ英語で、Willさえ分ればコト足りるようだが、(意志未来)1人称will  2人称shall  3人称shall (単純未来)1人称shall  2人称will  3人称shall 中川先生の授業を欠席したので、この点が高校までずっとわからない点で残っていた。

Syouwa44 家にはオート三輪でニ兄と高木さんが運転した。家に帰ると米が積み上げられている。これだけとってもウチの米としては、半年分だと言っていたようだ。それから、手伝ってくれた高木さんは、帰っていった。あの時間から、自宅の苗木へ帰ったのだろうか。

春先になると苗代に種もみを蒔いて、水の管理を郊外の田んぼまで見に行かされのは、中学生の私だった。

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