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2007年12月20日 (木)

三国連太郎 中学生から徴兵まで

7736 現在84歳、三国連太郎の人生は、出生から不思議な人生であるが、旧制中学3年か、4年で、船の碇iいかり格納庫に隠れて密航しているから、並みの人生ではない。

小倉中学にいたとき、上級生がストをやるのに同調してストに加わった。そのうち学校へ行っていることがイヤになって、小倉から下田中学へ転校した。

きょう「徹子の部屋」のゲスト三国連太郎から聞いた話である。彼の人生は、八十代半ばの人たちが日本の激動を経てきた人生は、日本の生きた道である。終戦後も、この年代の人が、先頭車両で民主主義を叫んで走ったのである。

山田風太郎の「戦中不戦派日記」を読みながら、自分の人生を語っていたが、戦争体験あるだけに、映画でも積極的に平和ってどういうものか、語ろうとする姿勢がある。戦争と平和を若い人に飽きないように、嫌がられないように伝えるのは難しい。戦争になると張り切るし、儲かる立場の人がいるが、平和では儲けが少ないからね。平和は退屈で、なめてかかるんだ、人間は。

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7734 下田の中学へ転校してきて、しばらくすると、自由な雰囲気から、軍事色が濃くなり始めた。それが先ず、制服がカーキ色のそろいの色になり、ゲートルを巻いて集団登校になった。二人の配属将校が学校へ来て、軍事訓練が行われるようになった。

「学校を止めたい」と親父に相談したが、それは許さなかったので、家出して下田に停泊していた神風丸という搬船に潜り込んだ。この運搬船は下田で給水をして、瀬戸内海を経て山東省の朝鮮半島からチンタオ(青島)へいく船だった。

7733_2この船に乗って行けば、日本の縁を切って、外国へいけると思って、碇の格納庫に隠れていた。そこで眠ってしまった。碇の落ちる音で、目が覚めたときは、船は出港して瀬戸内海を航行していた。船員が三国連太郎に気づいて、船長の次のチーフが「出て来い。お前おなかがすいているだろう、食わないか?」と聞かれた。三日間、何も句っていないし、水も飲んでいなかった。

食事をご馳走になって「この船はどこへ行きますか」と聞くと、「山東省のチンタオ(青島)」という。シメタ、外国へいける。中学生の分際で、よくそんな冒険を実行したと思う。

船員も、瀬戸内海で停泊して船を止めるより、また内地に戻るんだからこのまそれから下田の自宅kジュで少年を下ろせばいいと、目的地のチンタオへ着いた。それまでは船の中でボーイとして働いた。船員は10名しかいなかったので、人でが不足している。厨房の床の掃除や皿洗いを進んで働らき、みんなに可愛がられた。

山東省青島(チンタオ)に着いて、脱走しようと様子を見ると、港の波止場には、中国兵が大勢いて、下船しても逃げていく隙がない。船が着いた波止場の反対側には、殆ど人が見張っている様子がない。夜になって船員の油断を見計らって、船を下りた。

一つの灯りを頼りに、チンタオの町を駆けた。灯りのあるところは、日本人経営のダンスホールだった。そこで、「ボーイ」として働いた。中学生にしては、体が大きいことが幸いして、年をごまかしても、通った。

実家へ三国連太郎に召集令状が来ていた。(20歳にならないと、召集令状が来ないと思うので、三国連太郎の勘違いで、これは兵隊検査ではないか)家出しているし、召集令状がくるわで、母から「家出人捜索」が警察に出されていた。日本に帰ってそれを知った。岡山県倉敷あたりで、警察官に不審尋問されて、捕まった。

「君は徴兵を無視している」そのまま、伊豆の下田へ送られて、帰されて、しばらく父の仕事の手伝いをしていたが、指定日に出征することになった。「バンザイ、バンザイ」歓呼の声に送られて、駅まで行列で送られた。

父はその輪には入っていなかった。玄関で小さな声で私に言った。「何をしてもいい、どんな卑劣なことしてもいいから、生きて帰ってこい」と。これが頭にこびりついて、なんとしても生きなければいけないんだと戦争生活が2年続くわけです。

7728_2  戦地ハンカオへ着いてみると、本隊は南方の戦線へ行ってしまい、小さな留守部隊しかいない。留守部隊はお酒の醸造をして戦線へ送る仕事をしていた。そこで終戦までお世話になった。三国連太郎はこの手伝いをして、結局銃を撃つことなく終戦を迎えた。

7729 日本租界ハンカオにいたが、帰るまで約1年、捕虜生活であった。租界には約2万人の日本人がいた。そこで世話になり、帰還まで暮らした。結婚していると、優先的に日本に帰ることができるので、偽装結婚をした。相手は、夫が戦死した未亡人で親と一緒にくらしていたので、書類を作ってニッキョウ事務所に届けた。で、優先的に帰国した。着いたのは長崎佐世保である。

7730 宮崎の小さなバス会社へ数ヶ月勤めていたが、何せ偽りの結婚であるから、いたたまれなくなって、一人夜のうちに逃げるように宮崎を出てしまった。それから先が俳優としてデビユーした世間の人が知っている人生である。00008

参考記事 三国連太郎 出生のなぞ    戦中不戦派日記 三国連太郎 中学生から徴兵まで  三国連太郎 結婚~デビューその後  三国連太郎と恩師木下恵介    戦中不戦派日記

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