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2007年12月 4日 (火)

中津川市の間家 系譜

間家は、中津の発展にとって、どういう家柄だったのか、間家が中津の発展にどういう係わりがあったのか、案外重要だと思うようになったのは最近である。

中津川宿は、苗木、木曾(尾張藩飛地)領を含む地方の経済の中心地であった。中津の商家でも大きい間家が、白木、白木製品、塩製品の販売を行って、莫大な利益を上げていた。

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011 今は、間大正倉が記念に残っているだけである。中津へ三菱の工場を誘致したのも、間一族の功績だ。東京駅のすぐ前で弁護士事務所を持っていた間運吉さんは間太利先生のおじであった。

「若い人が好きだから、行ってきなさい」と、先生に言われてその自宅へアポナシで出かけたが、そりゃ、相手の都合を聞かないでいくのだから、それはムリだった。「富士山登山して帰ってきたばかりで、疲れているから」と断られた。再度、挑戦して訪問すれば、何か得るものがあったかもしれないが、その以後、こちらのニードが弱く、そのままになってしまった。

01002 八の字を○で囲った屋号は七代目間復矩(天明~嘉永)のころにつけた商標である。尾張藩の御用商人として係わりから、尾張にちなむ八を使ういことが許された。東美濃では、間家の権勢は大した勢いであった証拠だろう。間家は、江戸時代から明治になっても、勢いは衰えることはなかった。

142 私が気付いた昭和20年代の市長は市岡信介であったが、その前は間孔太郎市長であった。間家は、三代目から四代目に移るとき、二つの流れに別れて、この間孔太郎は、ヤマ半系八代目の間一族の人である。

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本流の間家が、初代と同じ「杢衛門」を名乗っており、中学時代に担任だった間太利先生は、こちらの血統の人である。 中津高校の元になる 女学校を創立したのも、本流間家の「杢衛門」である。太利先生の父に当り、先生は多くの兄弟姉妹の下から2番目くらいで、男尊女卑の時代に生まれ、粗末に扱われたことを、嘆いていたものだ。

そもそも、間家の祖は、関西の京極家の家臣であったという。縁あって、美濃へ移り住む。醸造の技術のある一族であったので、水の清い場所を探して、居を構えたのだという。

はざま酒造がここで酒造りを始めたのは、明治二十五年(1892)のことである。 この間家の先祖は近江の京極家に仕えており、その分家である間喜兵衛は赤穂アコウ浅野家に仕え、元禄十六年二月四日(1703)、吉良邸に息子の十次郎、新六とともに討ち入った。。十次郎は上野介コウズケノスケに鑓ヤリを突きつけ、見事に本懐を遂げた。

021幕末の中津のインテリは、多くが国学の影響を受けて、倒幕の方向に傾いていたが、間一族でも俳諧に嗜み、地元の浄瑠璃へ支援をしている。

ずいぶん前に太利先生宅へ行ったとき、間家の由来を書いてもらったし、兄弟姉妹の写真を見せてもらった記憶があるが、すかかり忘れてしまった。

先生、インコを飼っていて、肩へ乗ったり、とても慣れていたが、たまたま夕食時に鉄板焼きをやっていたとき、インコはピーちゃんと言っていたが、ピーちゃん、熱せられた鉄板の上に止まってしまって、足を焼けどで切断した。私が行ったときは、まだ片足のピーちゃんは元気でいたが、今はどうしたんだろう。00008_14 

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コメント

市岡訬介は初代の市長で、その前に市長はいません。間孔太郎が市長になったのは昭和30年代であって、市岡初代市長の前の市長ではあり得ません。間孔太郎が市岡氏より前に務めていたのは官選の中津町長なのであって、こうした基本的な事実は間違えないようにしたいものです。太利先生も泣いていますよ(苦笑)

投稿: 野沢菜漬け4号 | 2016年8月15日 (月) 12時56分

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