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2007年12月 5日 (水)

戦後満州引き揚げ 故郷への道

Z7351 Z7369 NHK「その時歴史が」満州からの引揚の話があったが、身近な家にも、悲惨な話がある。多くの人々には引揚げは過ぎ去った話かもしれないが、未だに引きずっている問題である。 

満州にいた佐々木一家は、ようやく引揚の話が伝わってきたので、母は荷物を抱えて、幼い子供4人と生後一ヶ月の新生児を抱えて、新京(長春)駅に来た。佐々木わき(母)、紘一(長男6歳)、敦子(長女5歳)道子(次女)、隆子(三女)、新生児は半年後死亡。

早く列車に乗れば日本へ帰れると思って、朝から夕方まで待ち続けた。それが上の写真である。母は出産一ケ月たったばかりで、まだムリが利かない体であった。一番上の兄は1年生、長女は幼稚園児で、数え四歳、二歳の妹、人人人の混み合う中で立ち尽くした。列車は来ないし、来ても、超満員で混乱の車両に母が幼児4人を乗せるのは到底できない。
 最初の試みはムリだと思って、再び大荷物を抱えて公務員住宅の自宅へ帰った。もう一度、こんどこそはと駅へ行っては、混雑を見て諦めて帰ることが数度あった。

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Z_7366 奥地から来た人は日本人会が世話する建物に住んで引揚チャンスを待っていた。 隣近所の家は続々と帰国してしまい、がらがらの公務員住宅の中で残っているのは、佐々木家ばかりという状態になった。
 母は産後の肥立ちが悪く、体調が優れないで寝付くことが多くなった。洗濯機があるわけでもないし、洗濯を幼稚園児の姉がやっていた。通りかかった中国人が、物干しに洗濯物を掛けているのを手伝ってやり、お母さんが病気なら、とタマゴをくれた。という話を聞いた。

 満州国公務員であった父は最後まで召集がなかったが、末弟が生まれるころ、終戦間際に徴兵され家にいなかった。佐々木家は女子供ばかりに家になった。

Z7375_2 ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って満州へ150万の軍が侵攻して、新京(長春)を占領した。そこで、満州には関東軍という最精鋭部隊がいるはずだったが、住民には知らされない間に、既に主力部隊はほとんど南方諸島へ移動していた。それこそ、職業軍人ではない、開拓団から徴兵した素人兵隊ばかりの満州の日本兵だった。
レイテ戦記 レイテ戦記2 レイテ戦記3 ルソン島死闘

 日本軍には、「名誉ある降伏」をという標語が一人歩きして、無抵抗で、mソ連の指揮下へ入った。このソ連が西側連合軍と同じ程度の約束を守る国だったら、その後の苦労がなかったが、ソ連の狡猾なだましで苦しんだ。
 日本人は外交も下手だが、個人も正直すぎて、コロっとだまされた。日本人は策がなく、えてして相手を信用しすぎる。島国の弊害、本来は世界中がこうなればいいのだが。

Z7344名誉ある降伏を」と、「全員そろって降伏するんだ」、とソ連軍の指定する小学校の広場へ武器を持って集まった。そこが武装解除の場所だった。
 その後は、全員日本へ帰すから集まるように声をかけたわけだ。すっかり、ソ連兵の言い分を信じて整列して待っていると、ソ連兵が人数を数えるが、なかなか数が合わない。つまり、数が数えられないのだ。代わって、日本兵が数えてやる。兵器の数も、日本側で数えた、と義父は言っていた。

 日本へ帰国するために港のある駅へ行くんだと整列させて、列車に乗せた。武装解除した日本兵は武器はないから、自動小銃をもったソ連兵に囲まれ、窓のない貨車に詰め込まれた。列車はゆっくり動き始めた。南下して日本海を目指すはずが、貨車の小さな隙間から見える景色を見て、北へ北へ進んでいると気づいた。日本兵たちはようやくソ連にだまされたと全員が騒いだが、コトは遅かった。

Z7410 時々、列車はトイレ休憩で停車した。
 このまま列車に乗っていたら、ソ連の捕虜になる。このチャンスだ、と必死に逃亡試みるものがいたが、逃げることは死を意味した。実際、逃げ出した者もいたが、数キロは離れた場所まで逃げたが、軍用犬をつかった追跡でみつかり、見せしめに銃殺された。逃げることは不可能であった。 義父はそのまま、
シベリヤ抑留となった。

 抑留されてからの話は、復員してから聞いたものである。抑留中の消息は、内地では殆どわからない状態であった。
 父からは秋田県中仙町の実家へ軍事郵便のような「抑留者専用ハガキ」がきたが、父には妻=母の死を隠して、父の妹が代筆して送っていた。父は、なんかヘンだと感じていたが母の死は引揚げてくるまでは分らなかった。

Z7409収容所(ラーゲリ)内では、共産党に心酔して、ソ連の思想を盛んに語る連中がグループ指導を率先して行っていた。そういう連中が、優先して帰国できると信じていたようだ。
 義父は身分を隠していたが、満州の公務員とソ連側に分って、多くの人が帰国しても、シベリアに抑留が続いた。満州の役人は、支配階級と判断されて、昭和25年まで帰国が許されなかった。早く帰国したいがため、ソ連へのエセ心酔者になり、仲間を裏切る情報をソ連に通報する連中が増えた。

新京の家では、母の体調はよくなる方向へ進まず、医師を呼ぶこともままならない状態で、衰弱していった。29歳の母は、日本敗戦の中、いかにして子供たちを日本に帰すか、衰弱する体調の間で苦悩し、死んでいき、子供ばかりが残された。子供では、新生児の末弟に乳を飲ませることもできず、半年生きたが、母の後を追うように死んだ。子供らが弟に重湯を飲ませたと聞いたが、それは、どんなものだったろう。死の間際の母の気持ちは、推察するに余りある。

 そんな状態で、親戚が公務員住宅へきて、母の亡骸を空き地に埋葬してくれた。しばらくは子供の世話をするが、帰国するにはどうしたらいいか、と相談した。独身の元気な遠縁のちょっと怖いお兄さんがいた。帰国するには、規則では、女子供が優先で乗ることになっており、独身男子はすぐ船に乗ることができなかった。しかし、子供4人を連れていれば、優先的に帰国できる。そこで、その青年に子供4人を託すことになった。

 おまけの話であるが、死んだ母の枕元には、帰国するに十分のお金があったと父はいう。土壇場の混乱では、そんなお金はあった、なかったという親戚でいざこざがよく起こる。戦後、そのことで争うことになった。

7363_2 こういう混乱した場では、乱暴な男ならこそ、多少のムリが効く。そうでなければ、乳飲み子抱えた母が、年端もいかない幼児ばかり4人を連れて、混乱した列車に乗り、船の港へ着くことはムリだっただろう。
 このお兄さんについていかなければ、はぐれてしまう。子供達も、必死だった。混乱の中、この怖いお兄さんの乱暴な態度が子どもを連れ帰るには役立ったもかもしれない。母自身の命と交換に子供を日本まで届けた、ともいえる。

 外地からの引揚は、占領統治する連合国の主導で始まった。日本政府は無力で、何ら手出しはできなかった。しかし、満州を占領していたソ連は引揚は許さなかった。満州の民間人204万人は、意図的に放置されていた。

 ソ連は、ドイツ軍に国土を荒らされ、2000万人が死傷した。国土復活のため、捕虜でもない日本軍をシベリアへ連れて行き、裁判が行われたわけでもないのに、囚人並の強制労働に駆り立てた。60万の軍人軍属が厳しい条件下で無料で働かされている。ソ連の戦後復興にシベリア抑留日本人を利用した。

Z7367Z7379 引揚が始まるのは、満州に立ち上げた「日本人会」の幹部が、このまま冬を迎えたら、子供、老人は全員死亡するという危機感に、元気のいい男性3名を日本政府に救助を求めるために送った。上記図のように、迂回して一ヶ月がかり日本に到着した。

Z7382  最初、吉田茂外相に面会して、満州からの民間人引揚を要請したら
「日本政府は、GHQのメッセンジャーでしかないから、満州から来た君たちが直接マッカーサーに訴えてくれ」と言われた。
 まるで満州の日本人は捨てられたようなものだった。日本政府のふがいなさにがっくりきたが、満州から来た三人は、現在の銀座松屋にあったGHQ本部に行って、最高司令官マッカーサーに窮状を訴え、日本人の帰国を計らうように必死に頼んだ。

Z7384  二週間後、マッカーサーから呼び出されて、司令官の命令で引揚第一便の船が出ると聞かされた。その話を今でも語る三人の日本人会の人は、涙なくして語れないようだった。GHQ内部で三人は抱き合って涙を流したという。満州の邦人救助を必死に戦ってくれた三人の心がジーンと伝わってきた。

 政府は何もできないのは、占領下であるという点を差し引いても、民間人の命に対して冷たい扱いである。国体護持以外の点では、政府はなにもしなかった。
 今現在、平成の御世でも、大きい声で主張している意見は、「国体護持以外は常に後回しになっている。そう、日本は「民の声」はいつも後回しだ。大銀行、大企業が優先の社会だね。

Z7432  これは、アメリカがまったく人道的な見地で善意で行ったわけではない。
 中国全土で、八路軍(共産党)と蒋介石国民軍が戦い始めて、満州を占拠していたソ連軍が引き揚げ、そこへ中国共産党軍が治め始めたので、国民党軍がアメリカに援助を求めてきた。
 国民党軍と武器などを上海から満州ロコ島へ送り込む船の帰りに、日本人を乗せて引き上げ援助をした。三角航路でアメリカ船を利用した。中国満州に日本人を残さないアメリカの方針によって引揚げが実現した。
というのが、現実である。
 国際情勢、国家間の駆け引きは、さように冷酷な側面がある。それを上手に人権、あるいは善意のカモフラージュをして見せるのが、外交官の役目である。

 そして、ようやく、帰国第一便が出ることになった。佐々木家の子供たちも、K兄に引き連れられて、乗船できたのである。ただし、第一便か、どうかは定かではないが。

 子育てをしたこともない青年が4人の子供を面倒を見るというは、相当難儀だったと思う。かなりいい加減で乱暴であったが、子供たちもこのお兄さんから離れたら、日本に帰れないし、死を意味する。兄姉妹4名はわかっていた。

7428 多分この子の腕のような状態だったろう。 だから、このK兄(仮称)は、もう面倒になり、手間のかかる2歳の妹を置き去りしていこうとしたときがあった。
 すると、引揚同胞の人の中で、3人兄妹が一斉に大声で泣き叫び、K兄も放っておくことができず、連れていくことになった。肉親でもないK兄は、母親と違ってかなり強引で乱暴な面が多く、子供たちは恐れながら付いて行った。子供兄妹四人は、団結はしっかりしていたという。食べるものも十分であるわけではないし、食の細い子供は栄養失調であった。

Z7392  新京(長春)を出て、朝鮮の港から舞鶴の港に着き、秋田大曲まで半年近い旅だった。昭和21年秋、大曲の駅に着くと、祖母、父の妹たち、(仙北郡)中仙町の近所の人々が出迎えてくれた。
 子どもたち、半年の間着替えもせず、一度も風呂は入らない体で、髪の毛はべちゃとくっついて、浮浪児より汚れていた。不潔と栄養失調が影響して、髪の毛が普通に生えるまで数年かかった。

 連れてきてもらったK兄とは、(秋田県)東北線大曲駅で別れて、それ以後、一度も会わないという。K兄は、道で出会えば、懐かしそうにするのに、兄姉妹は、怖い兄というトラウマで、ちっとも会いたがらなかった。
 40代になったころ、引揚話を聞きたいと思い始めたころに、K兄は亡くなった。一度、詳しく聞いておきたかった。

Z7395引揚手続き施設 NHK「その時歴史は」の話では、博多へ近づき日本が見えると、女性が海に飛び込んで死ぬ人が連続したという。
 それらの人々は望まない異国の子供を妊娠していて、日本での偏見を恐れての自殺だった。自分の身を殺してしまうことが起こっていた。そこで、帰国した女性で妊娠している人を救助するため、施設で堕胎手術を施した。

Z7405 堕胎手術 女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術を耐えた。痛み苦しみにも、叫び声も上げず、必死に耐えていた、と手術につきそった看護婦だった人が述べていた。
 
博多だけで500名以上の手術が行われた。全国の港では数千人の堕胎が行われただろう。

満州のソ連兵の強姦や樺太の電話局を死守して最後に青酸カリを飲んで自殺した交換手の話、涙亡くして忌めない記事がある。

ソ連軍=ロシア人は鬼畜 :03/07/30 03:57

■ソ連軍がベルリンに突入して制圧した際、スターリンは兵士に対し「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の祭りを許可した。ベルリンの女性のほとんどがソ連兵によりレイプされ、連合軍に届けられたものでも10万件を越えた。
ソ連軍がベルリンを制圧した時、スターリンの兵士への呼びかけ。「ドイツ人の夫達が東部戦線にいる今、おまえたちは人種的優越性にひたるドイツ女に充分陵辱を加えよ。焼き、殺し、犯すのだ!」ドイツ人女性の被害者は堕胎数から推定で数百万にも達しており、自殺者も大量。

■満州でも、ソ連軍は強姦しまくっていた。日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。「韓国・朝鮮と日本人」若槻泰雄(原書房)ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦00008_14_2


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社会保険庁の愚、旧日本軍の愚  
満州からの引き揚げ 1
 
満州引き上げは 負の世界遺産

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戦争の記憶が薄れるご時世 1 
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シベリアの抑留日記  
ソ連兵強姦の現実 手記 文藝春秋   
後満州引き揚げ 故郷への道 
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コメント

こんにちは。
私は青年劇場付属養成所に通っている者です。実は今度卒業公演で真船豊氏の「たつのおとしご」という戯曲を公演します。
この作品、登場人物が皆満州からの引揚者だということも
あり、色々調べていてこのブログに行き着きました。満州ではつらい体験をされた方もたくさんいらっしゃると思いますが、この戯曲はバックボーンにそんな事情を抱えつつも、笑劇です。

「たつのおとしご」あらすじ
舞台は昭和24年、閑静な海辺の洋館に住まう羽沢夫妻の元へ満州で別れた先夫、先妻、子供が同時に押しかけてきて繰り広げられる笑劇。

★日程 2010/3/6(土)14:00~、19:00~2010/3/7(日)14:00~
★場所 スタジオ結(東京メトロ丸の内線:新宿御苑前駅から徒歩3分)

投稿: あいこ | 2010年2月25日 (木) 01時27分

 宣伝色が濃すぎるのは、ちょっと、です。
 こういうときは、「タダ券を配ります」とか、何かサービスするものでしょう。試食なしに売るのは難しいです。
 今後、劇団で暮らしていくのでしょうか。モノを生産しないで、人を喜ばせて、お金を貰って生活することの難しさを痛感すると思いますが、その前に人気がでることを祈っています。

投稿: nozawa22 | 2010年2月26日 (金) 16時56分

申し訳ありません。

今読み返してみると本当に宣伝色が濃いですねsweat01
どうかコメントを削除して下さい。

でもこのブログはとても参考になりました。
ありがとうございました。

投稿: あいこ | 2010年3月 1日 (月) 00時29分

私の祖母も乳飲み子の父を抱えて満州から引き揚げました。祖父は戦死し、叔父は二歳で引き揚げ時に亡くなったと聞きました。
読書好きだった小学生の頃、今は亡き祖母の部屋で満州関連の難しい本を見付けて無邪気に尋ねると、普段は温厚な祖母に「知らんでええ!」と酷く怒られた記憶があります。
幼い孫にそう言った祖母の心情は、最近事実を知る事で理解できるようになりました。最近まで成人してからも、知ってはいけない物だと思い込んでいたのか知ろうとしなかったのを恥ずかしく思います。
こちらの参照資料や、実家にある祖母の満州の本達も読んでみようと思います。このようなブログを書いてくれてありがとうございます。

 ご意見ありがとう。
 引き揚げ者の多くは、あの悲惨さを語ろうとしないです。語ってほしいと思う側の期待する以上の何かがあるのだと思うが、それを打ち破ってほしい。
 これは、人間の歴史における「負の世界遺産」です。これ以上の悲惨さはめったありません。
 敗戦時、日本人が一方的に犠牲になった面は否定しませんが、それまでに相手の犠牲が多くあることも、忘れてはならないのだと思う。しかし、どんなことが起こったのか、私たちがそれを知らないままではいけない、と思う。双方の事情をきちんと知って、再び同じことが起きないように願うばかりです。管理人より

投稿: (名無し) | 2012年1月20日 (金) 17時25分

引き上げ者の記録を隠蔽ためか、意図的に「ユーチュウブ」から画像を著作権と言う名のもとに消している。
歴史を否定する悪質な暴挙だ。犯罪行為と言って良い。
憤慨する思いだ。こんなクズの日本人はタタキノメセ。許しがたい犯罪者だ。

60代日本人IP149様
「引き上げ者の記録を隠蔽」というより、無関心だと思うのです。
 中国や韓国は、日本の侵略行動を国民に繰り返し、繰り返し教え込んで、反日教育に腐心しているのに、日本ときたら、経済しか考えていない。アベノミックスでは経済経済で、自殺3万人の原因は経済だと思っているかのようだ。
 人は等しからざるを羨むのであって、貧しいから悩むのではないでしょう。
 過去の歴史をしっかり日本国民が向き合えば、中国と韓国、ロシアとどう対処したらいいか、おのずと回答が見えてくるはずです。
 

投稿: 60代の日本人 | 2013年2月27日 (水) 08時44分

母親の死後、乳児を 1年生を筆頭とする子供たちだけで半年も生存させたのでしょうか。どうやって重湯を飲ませたのでしょうか。k兄が面倒をみたのは4人では無く3人ということでしょうか。「幼い子供4人と生後1ヶ月の新生児を抱えて」「3人兄妹が一斉に大声で」と書いてありますが、子供は何人なのかよくわかりません。変なところが気になっちゃいます。アメリカの船で引き上げが行われたということは、初めてしりました。また、アメリカが全く人道的見地から行ったわけではないということも、よく解りました。近頃、大東亜戦争を顧みる動きが活発になっていますが、私も「平和ぼけ」の真の意味が解りつつあります。

投稿: | 2013年6月16日 (日) 10時20分

満州ではありませんが、我が家も引き上げの家族です。叔父が終戦間際、満州で徴兵され家族は奥さんと子供二人牡丹江あたりで亡くなったとのこと。いまだに頭から悔しさが離れません。
 住居を転々とし、三水、新阿山、羅津、三湖、退潮、興南、咸興、で暮らし、母は身重でS21年に引き上げ後、私が生まれ、平成になりこのことを聞きました。父は、妻と子供3人を無事に連れ帰り、責任を果たしたと、いまだにとても誇りにしています。
 また、じっくりと、拝見し、歴史を顧みたいと思っています。

投稿: TakeshiHiramatsu | 2013年6月30日 (日) 09時42分

堕胎手術 女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術を耐えた。痛み苦しみにも、叫び声も上げず、必死に耐えていた、と手術につきそった看護婦だった人が述べていた。

投稿: 堕胎手術 | 2013年10月13日 (日) 08時53分

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