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2007年11月17日 (土)

戦争の記憶が薄れるご時世 1

011 戦中体験者の文 薄れる記憶が、これがだんだん伝聞となり、影響力のなくなっていく。今のうちに、ちょっと採録しておきたい。新聞でいうと、朝日新聞と毎日新聞は、戦争の記憶を大事にしているが、読売新聞と産経新聞はそういうのはあまり掲載されない。

昭和61年(1986)の新聞の切り抜きを見ていたら、その場にいた人の投書、記録が掲載されている。今ご存命なら100歳だ。そのころでもすでに高齢で最後の投書になっているのかもしれない。

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012 中国で転戦した部隊で、人なつこくまじめな中国青年が通訳として現地採用されていた。あるとき、部隊が突然襲撃された。それは中国人通訳が手引きしたとされ、部隊長の前に引き出され、殴られ、ぐったりして。中国部落民を集めて、見せしめに火あぶりにされる。その見世物はひどすぎる。中国人の反日意識を駆り立てる・・・シーンをその場にいる日本兵が書いている。

戦争の現場はこんなことが、いつも行われわけではない、といいうかもしれない。守屋次官のようなゴルフを接待される職員ばかりではない。大半の官僚は真面目に仕事をしている。というのに似ている。

0122 担任「この戦争は負ける」「何が聖戦だ」と学校内で生徒に言うのも生活がかかっている。背負うもの、子供、女房がいると、それが言えない。それでも、自分の考えが言える、言ったのは相当の覚悟だ。

これを聞いた人でも、平成19年(2007)となると、70歳だ。戦争の影響は、いろんな角度から、私たちの生活へ重圧としてのしかかっている。一口で「戦争」とは言えない。戦争で好景気になるという考えもあるし、トクする側の人も実際いる。

悲しい目にあう人もいる。そうして、銃後の家庭では、きっと戦場にいかなくても、泣いている人はいくらでもいる。もちろん、戦争に行かないでも、悲劇はいくらでも、新聞記事に事欠かないが。

 久間、額賀元防衛大臣にしても、守屋元防衛次官にしても、やっていることが庶民の目に見えない部分で、相当なことをやっている。権力を握ると、その権限で最大限いい目をみようと、さもしい根性が見える。

 政治家になる人間、あるいは高級官僚になる人間は、私欲を離れられる人間でないと、許さないというかせを付けたい。あるいは、公務員は三年ごとに審査機関に掛け、調べる。昔から、役人になると、腐敗するようだ。江戸時代の川柳に「役人の子 二ギ二ギは上手になり」と言われた。

 学力で公務員を決めるから、おかしくなるんだ。戦時中にも、聖戦だ、死をいとわずに国家のため犠牲を賞賛して、戦陣訓を覚えさせ、特攻隊を募った。その張本人は、絶対危ないところへは行かない。嫌な組織だ。

022 ここにある「ある南方の中将」司令官クラスの人、名前までわかっているが、あえて書いてないようだが、コレひどい。だんだん具体的な事実から遠のいた記事になる。人間がどんなことをしたか、できるか、その事実をきっちり書き留めたい。

 以前読んだことのある文章にも載っていた。死の街道、白骨街道といわれて餓死者が出たビルマ戦線の戦闘計画した責任者だ。あんなに死んでしまうような勝ち目のない戦いに国民を放り込む、それは自分の計画で死ぬ人間が出ることに痛みを感じない人。官僚機構の中では、よく起こることだ。 

00004探していた「ある中将」とは、第15軍司令官牟田口廉也のようだ。今で言えば、防衛庁次官になるかもしれない。YouTubeで見るとわかりやすい参考資料

佐賀県出身。陸士22期。陸大卒業後、参謀本部員。 1927(S2)軍務局課員、29再び参謀本部員となり、33同庶務課長となる。その後36支那駐屯歩兵第1連隊長、38第4軍参謀長を歴任。太平洋戦争開始後は41第18師団長をへて、43第15軍司令官となりインパール作戦を指揮したが、無謀な指揮により部下に多数の餓死者・病死者を出して失敗した。 44予備役に入り、45召集、陸軍予科士官学校長となった。

戦闘の直接の指揮をとる師団長三人の解任という不詳事の出来。この不詳も事態が象徴するように、インパール作戦は統帥の錯誤と夢想から生まれた無謀かつ不合理な作戦であった。

インパール作戦(白骨街道)  第2次世界大戦中インパール(インド東北の辺境、マニプール土侯{どこう}国の首都)作戦ほど悲惨な戦闘はなかった。作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も遅すぎた。

大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年7月15日は、時すでに雨期に入っていた。日本軍の、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった-『決定版昭和史第11巻138頁』)、兵士達はこの道を「靖国街道」・「白骨街道」と呼んだ(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻333頁)。

食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。
 この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻499頁)。

 インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。 

 多くの将官は、最悪の戦場の中でも最善を尽くし多くの将兵の命を救った。司令官の牟田口はこれら配下の部隊の収容を待たずに、「北方撤退路の視察」と称して司令部を離れ、そのまま単独帰国した(Wikipedia)

 税金はとる側、国民の治者として君臨する側は、痛みを感じない。とにかく税金を集めたら、それを使うのが役目と思っているヤツラ、取られる側に一度も身をおかないと、そういう人間になる

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コメント

税金はとる側、国民の治者として君臨する側は、痛みを感じない。とにかく税金を集めたら、それを使うのが役目と思っているヤツラ、取られる側に一度も身をおかないと、そういう人間になる。

投稿: 税金取られる側 | 2012年6月23日 (土) 18時01分

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