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2007年8月 6日 (月)

被爆死体片付けた 広島高師の学生

275 広島高等師範学校の学生だった熊崎公平先生は、我々クラス全員を期末試験あとの夏休み前、緑陰に誘って、原爆の話をしてくれた。そこは、高校の近くの旭が丘公園だった。普段授業では数学以外の話は一切しない厳しい先生であったが、年に一度、原爆の話をした。それが先生の原爆への関わり方だった。

00217 先生は、被爆は直接しなかったが、原爆投下、数日後から、死体の処理に駆り出された。爆心地から数キロ内の死体を集めて、トラックに乗せる作業に広島高師の学生全員、動員された。絵「被爆者の絵」

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Ge1311 絵「被爆者の絵」 先生は江戸時代の火消しが使う「トビ」を使って、死体を引っ掛けて、軍用トラックへ乗せる作業だった。

「火で焼けた死体は真っ黒で腹が膨らんでいた。手で焼死体を持つと、焼いたサンマと同じで、溶けた皮膚がズルズルと剥けて滑ってしまった。私たちは、ツルツルした死体をいかに上手にトラックに載せるか、そこに集中して作業をしていた。悲しみなんかまるでない」と先生は、10数年前を思い出しながら、手ぶりを交えて語っていた。昭和32年の夏7月だった。

Ge1327 絵「被爆者の絵」 その膨れ上がった腹にトビを打ち込んで、引っ掛ける。そして引っ張る。トラックに持ち上げる。昨日のことのように、当時を思い出して話してくれた。そのトラックは死体で一杯になると、郊外の各所の焼き場へ運んでいく。終日焼き場は白い煙が上がっていた。
 毎日、そんな原爆犠牲者の処理が一ヶ月以上続いた。もちろん、そのときは、放射能のことなど、ダレも知らない。だから、放射能の
影響など、一切考慮されていないから、残存放射能はたっぷり浴びている。

Ge1536絵「被爆者の絵」  私たち高校生には、原爆の被害、悲惨さにそれほどリアリティがなかったので、漫然と聞いていた。
 先生は、その死体の処理作業を爆心地の放射能の中で一週間続けていたので、入市被爆者になった。(岐阜県)中津の町では、先生以外には、きっと被爆手帳を持っている人はいないのでないか。

Ge1545 絵「被爆者の絵」 被爆遺体の処理は、先生には、人生最大の経験であっただろう。その体験がいつも先生の意見の底流にあったようだ。先生は、教員の組合活動は一切していなかった。しかし、投書マニアと呼ばれるほど、投書をよくしていた。先生の投書は一ヶ月に一回はどこかの新聞に載っている、と多く投書していた。ボツになるのも多いだろうから、きっと毎日書いていたのだろう。

Ge1617 絵「被爆者の絵」 口さがない人々は、テレビを先生が買えば、投書で稼いだ、とか陰口を言っていた。

大学のアナウンス研究会(通称アナ研)の練習台本を見せてもらったら、熊崎先生がNHKに投書した原稿が載っていたのには、驚いたことがある。熊崎公平が耕平となっていた Ge1622 が、まあ、日本語は発音だけでは、漢字が書けない、という欠点がある。それに気づいた最初でもあるが。

絵「被爆者の絵」 先生は高校校長を歴任して引退、後に●●褒章勲●等を受章された。奥さんは、昭和24年頃、南小学校で先生であった福田先生。丸顔の可愛い先生だった。

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コメント

冠省
初めて、投稿します。

父が広島高師出身です。当日は(現マツダ)の工場動員で 入市被爆だったそうです。

幼い頃から 広島展等のチケットは必ず渡されていましたし、およその話は知っていました。けれど我が家では絶対触れてはならない話題でした。

ある日、父の同僚の先生が 私に音声のテープを一本くださいました。意を決したか 父が始めてクラスの高校生達に経験を話した授業の記録でした。同窓、生き残った皆さんで作った あの日の記録冊子も分けてもらいました。私が縁あってアメリカから招く親子にも 聞く気があれば話してくれます。
私も来日を迎える度に 広島一泊を組み込んだ日程を提供し、なるべく8月6日にそれが来るようにしています。

それでも 毎年夏の甲子園が始まる頃から父は不機嫌になりますし、家族は皆 テレビを見なくなります。
惨状を伝える努力は 並々ならぬ覚悟が必要だ、と思います。
私も、ですが それを私たちがどう伝えるのか、これからも悩んでいくつもりです。 

高師、それも当時は日本に二つしかなかった専門高ですから ほとんどの方々は教師として、全国に散っておられると思います。皆さんはどのように伝えられたのか、伝えられなかったのか、に 思いをはせました。

聞かれた話を伝えようとしておられる内容に賛同して コメントをさせていただきました。
平和や教育などについて多く語るブログを開設している友人にも リンクを貼って送りました。

敬具

Mako 

投稿: Mako  | 2008年4月12日 (土) 01時05分

父の同僚の先生がくれた音声テープは、まだお手元にありましたら、みなさんに伝えたいので、テープを貸してください。ナマの声で伝えられたら、より身近に感じられます。

友人の平和や教育を語るブログのアドレスを教えてください。

ご返事お持ちしています。

投稿: nozawa22 | 2008年11月30日 (日) 22時58分

原爆で焼けた死体は真っ黒で腹が膨らんでいた。手で焼死体を持つと、焼いたサンマと同じで、溶けた皮膚がズルズルと剥けて滑ってしまった。ツルツルした死体をいかに上手にトラックに載せるか、そこに集中して作業をしていた。悲しみなんかまるでない、と先生は、思い出しながら、手ぶりを交えて語っていた。

投稿: 広島高師の学生 | 2011年4月 1日 (金) 14時17分

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