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2007年8月22日 (水)

僕らの八月十五日

00003 上村一夫の 劇画「関東平野わが青春漂流記」に寄せた阿久悠の詩がある。

電燈のまわりに黒い布を巻いて、外に明かりの漏れないようにしていた灯火管制で、空襲におびえていた時代が終わったんだ。そう思うだけでも、気分は楽になった。参照

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D2321 戦争なんか、誰も好んでしやせんが、いつのまにか、生活の周りは戦争一色になっていた。私は小学校にも入っていない幼児だったから、影響はないようなものであったが、食い物がない、遊ぶものがない。あるのは、古い兄や姉のお下がりの雑誌、や本。戦時中は子供の雑誌や本はなかった。

家の周りは、防火水槽、焼夷弾用の砂袋が吊り下げられていた。ガラスは障子紙が割れないように貼り付けてあった。多くの家は防空壕を掘る家が多かった。衣料品は配給に。Syokakun

時々、在郷軍人(退役兵)が町内会の婦人を集めて、竹やりで米兵を刺し殺す訓練をしていた。竹やり訓練のほかには、バケツリレーの練習をしている。近所が火事になったら、それを消すノウハウを教えていた。焼夷弾は油に火がついて木造の家はひとたまりもないが、砂を被せて消す。それを婦人会の人々は、「大日本婦人会」というたすきをかけて走れ回っていた。

Hinankunは弟を妊娠していて、力が必要な消火訓練、竹やり訓練は免除されて早めに帰ってきていた。家に帰ってから、訓練で覚えてきた近くで爆弾が破裂した場合、防空頭巾をかぶって、目、鼻、耳、口を両手で押さえる方法を4歳前の私に手をとって教えてくれたことを思い出す。

武器兵器の材料に金物は供出した。時とともに、多くの人に聞いても、その頃のことを正確に覚えている人は少ない。実に、四つ目川の橋の欄干に取り付けてあった金具は全部外されて供出して、みすぼらしい姿を昭和30年40年代もさらしていた。

玉音放送を聞く、昭和20年8月15日正午、多くの人はラジオの前に集まってしまって、町中は静まり返っていた。用もない私は、迷子のように国道沿いにある市民プールの周りを一人歩いていた。今は、税務署、昭和8年の水害記念碑(天皇から金一封を御下賜下されて)が建っている。

ラジオ放送で何か放送しているとは気づいていたが、その意味の重大性はわからないから、ただ水泳場プールの水を見ながら歩いていた。

それから、半年して、近所の家に復員してくる家が多くある一方、中村にある墓には、卒塔婆が新しくたくさん立った。いわく、ガナルカナル島にて戦死、アッツ島にて戦死、ソロモン諸島で戦死というのが多かった。

昭和21年、大学生が中津の街では「文化新進会」という会を発足させて、時代が変わったという印象を与えた。戦中の教育を受けているはずなのに、民主主義のメッセンジャーのような行動をしていた。

所蔵している本を集めて今の「すや」店のあるところで「図書館」を開いた。けっこう借りにくる青少年が多かった。図書館のほかに、演劇活動もやって、中津の劇場「旭座」を貸しきって、劇をやった。

一番私の印象深いのは「夏休み子ども会」だった。子供を夏休み中、午前から集めて「お話会」を二中の校庭で開き、学校の先生になったばかりの人が20~30人くらいの子供に話しをしていた。

クリスマスには、始めてクリスマスツリーを飾って、アメリカの文化はこんなものだというのを教えてくれた。芭蕉は旧中津町役場の二階で行われた。

新しい時代は、この大学生たちから教わった。当時は旧の勢力は、完全にいない状態で、年配の先生は、町の戦犯扱いでどこにも顔を出していなかった。時代は変わった、そんな印象だった。

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