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2007年8月 7日 (火)

小野田少尉と冒険家鈴木紀夫

Photo_3  戦後三十年、祖国の敗戦を知らず、フィリピンのルバング島で戦い続けていた小野田寛郎さんを救出した冒険家、鈴木紀夫さん(38)は、昨年、ネパールのヒマラヤ山中に「雪男」を探し行ったまま遭難し死亡したことが、ようやく昭和62年10月、確認された。

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Onoda_1 「もしあの時、鈴木君に遭遇しなったら、私はまだ帰国することはなかっただろう」と小野田さんは鈴木さんに恩義を感じており、そのを心から悼んでいる。二人の友情は、十三年前から続いていた。小野田さんは、ブラジルか訪日したのを機会に、来月三日、ネパールの遭難現場に飛ぶことを決意した。

「奴の大好きだった酒たっぷりかけてやる」と、小野田さんは言い残して、カトマンズに向かった。

 この記事は、私の20数年前のスクラップに貼ってある中から見つけた。古いスクラップには、案外面白い記事があるものだ。

Onodayoung  当時昭和49年、まだ弱冠二十五歳だった鈴木は、意表を突く作戦を行い、小野田少尉の救出に成功した。当時鈴木青年は“ヒッピー”だった。日本政府は、拡声器を使った大捜索だから小野田さんは、まずまず懐疑的になっているのだろう。オレだったら、“小野田さんの占領地”に一人で入って行って野営していれば、「縄張りを荒らすやつは誰だ!」と向うからから来るのではないか、と鈴木は考え、単身ルバング島へ出かけたのだ。

Onoda  この読みはピタリと当った。
 鐘や太鼓の大騒ぎの(政府の)救出作戦は、小野田さんに警戒心を抱かせて効果がない。一億円もかけた日本政府の救出作戦の間違いが担当者にはわからなかった。

 鈴木さんが野営していると、日本の敗戦を知らずに30年間も戦い続けた小野田少尉は、鈴木さんの読み通り、現れた。

 

 「もし、奴(やつ=鈴木)が、あの時、靴下にサンダルという妙な格好していなかったら、撃ち殺していただろう」。なぜなら、フィリピンでは、靴下をはく階級はサンダルなんか履かない。必ず靴を履くから。

 鈴木さんの方も、実際に小野田少尉に銃を突きつけられると、動転、「大男が現れた」と震えあがった。小野田少尉は一六〇で小柄な方だが、鈴木君は驚いたから、よほど大きい人に見えたのだろう。

01_2 二人はお互いに警戒しつつも、夜を徹して語り合った。信頼関係を築き、翌朝鈴木君は「小野田さんを見つけたという証拠に一緒に写真を撮りたい」と言ったが、彼は機械に弱く、セルフタイマーの扱いがうまくいかず、カメラが趣味である小野田少尉に手伝ってもらって撮ったのが、この写真である。
「だらしがないぞ」と小野田少尉に叱られた鈴木君である。

Imgp1472 私のスクラップブックの中にある記憶に残る昭和62年63年、今から20年前をピックアップしている。鈴木紀夫の遭難死から、ルバング島で発見救出は昭和49年2月21日を再現した。

光文社写真週刊誌Flush元編集長鈴木紀夫氏(私の知人)、冒険家鈴木紀夫さんとは同姓同名の別人である。

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ここに登場する鈴木紀夫氏を当時旅先で出会った方のコメントがあります。
彼らが小野田さんを見つけた可能性すらある。
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コメント

お邪魔致します。
実は、昔の日記を復活させようとして当時(1969-70)の旅行を思い出しながら、書き始めたのですがなんとなく調べていたら、故鈴木紀夫さんの写真が目に留まりました。

大学封鎖で初めての海外旅行に出かけたのですが、彼と同じカンボジ号に乗り合わせ、バンコクまでの2週間行動を一緒に。当時の旅行仲間とはもう連絡がとれませんが、アクの強かった鈴木君がなつかしく思い出されました。

後に堀江健一さん(昔の会社の先輩)と話していた折、彼の話が出て台湾珍道中の話題などで盛り上がりました。船上やバンコクでのスナップ写真もかなりあったのですが、大事な写真集、離婚のため前妻がどうしたのか不明でちょっと残念です。

陽気で一風変わった鈴木君が思い出されて、ここに書かさせていただきました。

Hokalon(Mochida)

投稿: Hokalon | 2009年8月24日 (月) 09時50分

鈴木君とは確か1971年の12月~1月の約一ヶ月間マドリードのユースホステルで一緒しました。ひょうひょうとしてみんな彼が大好きでした。彼はいつも「バクシーシ」と言って両手を前に出したばこをねだってきましたが憎めませんでした。
長い一人旅の話をしてくれるとき、みんなが彼の回りに集まり羨望のまなざしで聞いたものです。彼が宿を出るというと何とか言いながらみんなが引き留めました。とうとう出るときはみんな並んで握手をしたものです。「俺はアフリカで死ぬかもしれない」とか言っていましたね。僕は「旅行なんてたかが遊びじゃないか。そんなもとで死ぬなんて言うなよ」と言ってやりました。
 私はその後モロッコに下ったら先にアフリカに渡ったはずの彼がまだモロッコにいて再会しました。僕も当時の同宿した人たちともう一度会いたいなーと思いますね。消息は全く分かりませんが。(現在熊本県荒尾市在住の竹山)

管理人より
 青春時代の旅の話を教えてください。当時の同宿した仲間を探すお手伝いしますよ。

投稿: タケ | 2011年12月 3日 (土) 00時22分

久しぶりに人前で話しをすることになり、大学時代に2年間休学して、世界一周のヒッチハイクの旅の話をしました。その中でどうしても忘れられない人鈴木紀夫氏とめぐり合ったこと、1972年アフガニスタンの汚い民宿宿で1週間生活をともにして、いろんな話をしたこと後に、フィリピンのルバング島で小野田少尉をおびき寄せ日本に連れ帰ったこと、雪男を探しに行くと夢をもっていたこと。ヒマラヤで亡くなってからもう25年ぐらい、当時の彼の様子、千葉の家で、雪男なんていないよ馬鹿だねーといってヒマラヤ行きを止めたこと等、思い出されます。遺体が発見されたことは知りませんでした。改めて彼のご冥福をお祈りします。鹿児島県沖永良部島より。

投稿: 林富義志 | 2012年1月27日 (金) 22時29分

鈴木君とは確か1970年12月~71年1月にマドリードのユースホステルで同宿した竹山です。たまたまこのページに出くわし驚いています。
 林さんはアフガニスタンで出会われたのですね。私はアフガニスタンはイラン経由で列車、バス、トラックなど乗り継いで71年の3月ころ通ったと思います。とても平和でした。
鈴木君がマドリードのユースホステルをみんなに惜しまれながら見送られて出たのは1月半ば?。私はその一週間後くらいにモロッコに下ったのですがモロッコの最初の町で彼と会いました。
「まだここにいたの?」と聞くと、彼が
「ここは○△がうまいからもう少しここにいる」と言っていました。「弟が早く帰ってこいというからアフリカ回ったら日本に帰ろうと思っている」とも言っていましたね。
 私も一人旅でしたが、モロッコでは危険を感じたことも数度ありました。鈴木紀夫氏はやはりキーマンです。
 私は後年教職(中学校)に就きましたが、鈴木君の遭難死を新聞で知り、その記事を学級通信に載せたくらです。彼の息子さんのその後も知りたいですね。

竹山祐一様
お仲間のような世界を旅する人が、日本にはいるのようですね。日本にいても、息が詰まりそうで、これから世界を旅する人が増えててくると思いますので、世界を旅するときの注意などを教えてください。
 現地情報の集め方、お金の問題、宿の探し方、危険回避のしかた、言葉の問題など。

投稿: 竹山祐一 | 2012年2月28日 (火) 05時39分

 お訊ねの件ですが、もう40数年、当時は(世界放浪は)流行でもあり、今より危険度は低かったと思います。
 私の半年の旅行経緯を紹介します。
 九州での大学4年を休学し、資金稼ぎに4月に東京に上がりました。リュックには夏冬ものを詰め込み、ヒッチハイクで北九州を出発し、主にトラックを乗り継ぎ、二日間で東京に着く。友人の家に投宿し、そこから仕事をいろいろしました。キャバレーの正社員、舞台セット作り、スーパーの店員、10万円の外国製鍋売りなどして資金を貯めました。これで15万円ほど貯金し、残り35万円は親から借金しました。時計やセーターなどは友人からもらい、半年後の10月に横浜から船で出発し、ロシアのナホトカ目指したのです。
 さっそく船中でパスポーをなくし、放送をかけてもらい、スワッこのまま送り返されるか、ドキドキしましたが、デッキで見つかり、船員に世話になりました。こんな男でも、だからこそ?それから6ヶ月おもしろ、ひやひや珍道中ができました。25カ国くらい回ったと思います。
 宿は原則ユースホステルなので、その本を買いました。また、世界の情報本も買ったと思います。現地情報は、ほとんどがいきあたりばったりで、ユースホステルは情報受信場所でした。そこそこで会った日本人に聞きました。
 最初から詳しい計画は立てていません。行き当たりばったりでした。それが良かったと思っています。
 言葉は「世界五カ国の言葉本」みたいなのを持ち歩きました。私は外国語が専門で、英語とスペイン語が少しできたので少しは助かりましたが、ヨーロッパでは英語はあまり通用しなかったと思います。ドイツ語、フランス語が主ですから、それは「五カ国?語本」をみながら使いました。
 旅人は言葉は苦手な人が多かったので数人が集まると、たいてい私が交渉係になりました。言葉は使えればとても便利ですし、なにより情報交換がしやすいのですが、それよりどんなところに行っても現地の人と交わろうとする柔軟な心構えが大事だと思います。
 それこそ腹巻き、ステテコでホステル内を歩いていた日本人もいました。若いから楽しかったです。
 一人旅には危険はどこでもついて回ります。 事前の情報は、宿で聞くこと、大使館などに行って聞くことなどかなと思います。
 盗難もあると聞いていました。パスポートと財布は腹巻きに入れてましたが、寝にくいのであとでははずしました。危ないところには「できるだけ」近づかないこと。人は安易に信用しないこと、麻薬や、現地で重罪になるようなものには絶対手を出さないことなどでしょうか。
 私が危険を感じたのは、モロッコ、トルコ、インドでした。反面、用心しすぎると旅自体がおもしろくないとも思います。鈴木紀夫くんではありませんが、旅に命をかけることは避けるつもりで、絶対元気に日本に戻るということを肝に銘じておくべきでしょうね。
 自分の体は自分で管理しないと、病気になっただけで周囲に迷惑をかけます。私は野宿もあり、アフガンでの一泊50円の洞窟宿もありでしたが、自己管理をしっかりし、気をつけながらも心を開いて明るい心で接するとき、現地の人たちや旅行者から受け入れられます。
 にこにこ笑顔は日本人の徳です。日本で受け入れられる人は世界でも受け入れられると感じました。
 旅先でお金を稼ぐことはできませんでした。お金が足りなくて途中で家から送ってもらいましたが、香港でフランス人の旅人に自分のカメラを売って、そして北海道出身の旅人がお金を貸してくれたので鹿児島上陸できました。半年の総額が50万円くらいでした。思い出しながら記しました。
 旅は良いですね。ぬるま湯的な大学生活の中で結局一番人生を学んだ体験でしたから(笑)。
 ついでに、私の中学校の学級通信は鈴木紀夫君の口癖の「バクシーシ」をもらって「バクシーシ」としました(笑)。鈴木君は天国で何をしているんですかね。こんな形で40年後の今、彼の話しで盛り上がっていることに、天国で恥じらうようににやにやしながら、彼は聞いていることでしょう。

当時の世界の事情は今とはずいぶん変わっているので、もできるだけ情報を集めて、安全第一で行ってほしい。やはり世界を旅行することは人生の大きな宝になります。(完)

竹山さん
 参考意見、ありがとう。どこへ行っても、(日本人を含め)旅人はいるものですね。一番必要なものは、男は度胸+愛嬌ですね。

投稿: 竹山祐一 | 2012年3月 1日 (木) 17時16分

 懐かしいなぁ・・・鈴木紀夫君、
 昔、君が経営していた原宿の喫茶店で雪男探しのカンパをしたことを思いだしたよ。この地球で君を嫌いになる人間なんて一人もいないだろうね。会った人をすべて友人にしてしまう不思議な才能の持ち主・・・。
君のような素晴らしい人間は二度と再びこの日本には現れないだろうさ。破天荒すぎるよ。しかしびっくりするだろうな、
今の日本人が彼に会ったら、こんな人っているんだねって。君の笑顔は一生忘れないよ。天国でまた話をしような。君の冒険談をまた聞かせてくれよ。
友人A様
冒険家の鈴木紀夫君は、相手を好きになるから、好かれるのでしょうね。相手の長所を見つけてほれ込んでしまえる人なんでしょうね。

投稿: 鈴木紀夫の友人A | 2012年5月 9日 (水) 06時55分

鈴木さんの実家は私の実家の近所でした。
幼い頃に遊んでもらった記憶があります。
小野田さんと聞くと優しかったおじさんの事を思い出します。

投稿: 市原市民 | 2014年1月17日 (金) 19時51分

 鈴木紀夫君のともだちとはなしたいです。
 私の日本語はあまりじょず(上手)ではないだけど、映画をつくるために、鈴木紀夫君のかいがいりょうこと学生の話を習いたいです。

 My apologies for my poor Japanese, but I am a producer doing research on Mr. Norio Suzuki for a film project, and I would like to get in contact with any of his friends who may have traveled with him abroad or studied with him while he attended Hosei University in Tokyo.
 The main focus of my research is NOT on Onoda-san, but rather Suzuki-san's own life. Please let me know if you might be willing to discuss these topics with me.
よろしくお願いいたします。

 小野田さん、鈴木さんのことに関心がある方、どなたか、お友達になれる方、メールを差し上げてください。(Nozawa)

投稿: クリストファー | 2014年3月10日 (月) 02時18分

久しぶりにこのサイトを訪問したらずいぶん投稿がありましたね。僕は1970~71年当時スペインで民宿(pension)で同宿していた二人を捜していて、結局見つかりました。65歳~70前の僕たちですが一人は大手新聞社に就職し海外特派員など経験し退職後九州まできてくれて一緒に飲みました。もう一人もあの当時僕たちと別れた後8年間も欧米をうろうろし帰国。今は埼玉で美術館を経営(?)し、絵を教えているとのことでnet上で再会でき、電話で話すことができました。人生おもしろいですね。このページへの書き込みを時折楽しみにしてのぞいてみたいと思います。主さんよろしくお願いします。ただ、残念ながらクリストファーさんのご期待には応えるほどの情報は持ち合わせていません。鈴木君の印象は「すきだらけで誰でもwelcome」て言えばいいのでしょうかね。フワーっとしていて笑顔しか見たことはないですね。43年くらい経った今なので曖昧な部分が多いと思いますが。

投稿: タケ | 2014年6月29日 (日) 23時50分

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