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2007年8月15日 (水)

1945年 終戦 五木寛之in平壌

Ituki01 62年前、中学1年生の五木寛之が終戦の日、北朝鮮の平壌ピョンヤンにいた。しかし、あまり記憶がないと「週刊ゲンダイ」(新風に吹かれて)に書いていた。学校の校庭で玉音放送を聞いたが、電波の調子が悪く言葉がはっきりとは聞き取れなかったが、日本が負けたことだけは理解した、という。

Syusen2それまで、日本が戦争に負ける体験をしていないから、終戦と共に、学校が休みになり、長期休暇がはじまったような気でいた。朝鮮人民の上で胡坐をかいていた日本人の運命がどうかるか、一般の日本人は、わかっていない人が多かった。

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Image004ピョンヤン(今の北朝鮮首都)駅は、いち早く日本に帰るつもりの人が集まって、ごった返していた。高級軍人や官僚だった人の家族は、危険を察知して日本に逃げようとした。

「一般市民は軽挙妄動をつつしみ、現場にどどまれ」とラジオ放送で呼びかけていた。私たちは漫然とソ連軍の進駐を待っていた。ソ連軍という組織が日本人を日本に帰してくれると、期待をしていた。一般市民には「現場に留まれ」「軽挙妄動を慎め」といいながら、利口というか、要領のいい連中はさっさと逃げ出してしまった。

この建前をどんどん聞かせて、だませるものはだまして、情報を理解している軍部連中は、外地で敗戦になればどうなるか、一般市民を置き去りにした。大衆市民に本当の情報を知らせたら、混乱する、そればかりであった。公務員の本質はここにある。

この点、五木寛之は、トラウマのように、後遺症のように残っている。今なら、テレビやラジオが「安心して現地にととまるように」と伝えたら、すぐに脱出するだろう。政府や役所はマスコミの指示することの反対の行動を取ればまず間違いない。その不信感は、五木寛之の心から六十二年たった今も消えない。

朝鮮の国土に乞食状態で過ごす日々か始まった。それは、今まで宗主国でとして君臨した日本はもうなくなったのだから、邪魔者、不法滞在者とされた。朝鮮人からどんな仕打ちをうけても仕方ない立場に追いやられた。

800pxjapanese_name_change_bulletin_ それまで、一体日本は朝鮮人にどんなことをしたか。日韓併合した後、創氏改名志願兵制度、どの学校も日本人教師が日本語教育を強制していた。当然日本への同化していく方針の一環であった。その方向を朝鮮の人間が喜んでいるはずがない。金大中など、年齢の韓国人は、日本語はペラペラである。脱北高官、黄長燁ファン・バンジョブ氏も日本人並の日本語が使える。朝鮮は日本植民地として36年目であった。

Tyanzen1 朝鮮の米が日本へ入っていきた。台湾からも入ってきた。内地と同じ米が台湾と朝鮮から入ってきて、随分国内では米は豊になった。植民地さま様であった。朝鮮と台湾の植民地を犠牲として、日本の繁栄があった。

これは、今、格差社会でプアな人間の上に日本社会の繁栄が成り立っている。外地を利用した構造が、内部の弱者を利用したの違いで、実質はと同じである。後世の史家は評価を見たいものだ。

どこかで「蛍の光」が聞こえた。北朝鮮の平壌市民が、植民地との別れを歌っているのだった。そのあと「ウリ・ナラ・マンセイ!」と聞こえたという。ウリ=わが、ナラ=国、マンセイ=バンザイ 朝鮮の人々にとっては、祝福のトキを上げていた。わが朝鮮バンザイ!独立バンザイ 朝鮮の国中沸き立っていた。嬉しさが溢れていた。日本に虐げられていた朝鮮市民には、日本の敗戦は、嬉しかったのだろう00008

nozawa22: 青春の門 五木寛之

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