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2007年7月16日 (月)

青木新門 納棺夫日記2

Photo_2 青木新門さんの講演を某所で聞いた。青木さんの人生は波乱に富んでいた。最初のところでは満州から引き上げで、お母さんと妹と必死の思いで新京あたりの収容所にいるとき、母が病気で隔離されている間に、妹が死ぬ。その遺骸を焼き場へ担いでいって、置いてくる。それだけで、充分、驚異な出来事である。

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ハルピンとか北のほうから、どんどんどんどんと、日本人が逃げてまいりまして、その収容所がすしづめ状態になりまして、みんな着のみ着のままでございますので、しらみが蔓延しまして、発疹チフスが蔓延しまして、ばたばたと毎日誰かが死んでおりました。

そんな収容所の中で、母が発疹チフスになりました.発疹チフスというのは伝染病ですから、隔離されてどこかへ行ってしまった。私は少年でしたから、どこへ行ったか分からないわけです。8歳の私と4歳の妹とふたりが、取り残されたように収容所に、知らないおじさんとかおばさんの間におりました。

P101001141これは、アメリカ人写真家の作品だが、妹を荼毘に付したときの自分の姿を見たような気がして、見た途端に泣けた、と青木新門は語った。

やがて冬がやってきまして、満州の冬というのは零下20度ぐらいになる、そんな寒い朝でございました。目が覚めましたら、枕元で妹が死んでおりました。それを抱えて、日中、大人の人が死体を焼いているところへ、ぽんと置いてきました。置いてきただけです。何となく気になりまして、夕方また見に行きました。誰か焼いてくれるだろうと思って置いてきたのですけど、見に行きましたら、まだそのままになっておりまして、置いてきたときはそうでなかったのに、夕方行きましたときに、なぜか、硬直したのか、手がちょっと伸びておりまして、その手だけがいまだに記憶に残っているんですよね。 

人間の記憶って、不思議なものでして、そしてそのとき見上げました夕焼け空だけが、今でも鮮明に記憶に残っているのですね。面白いもので、形あるものは全部消えていって、そこがどんな場所だったか、どんな所だったかまったく記憶がないのですけれど、夕焼け空だけが今でも鮮明に記憶に残っております。

  日本に引揚げてから、母がようやく故郷の富山だったと思うが、そこで居酒屋を始めて、それを頼りに早稲田の政経に入ったが、60年安保で学校は休校になった。それで、富山に帰って母の手伝いをしている間に、母が病気で代理で店、居酒屋を切り回していた。そこへ著名な作家(吉村昭)が来て、名刺を置いていった。

 その頃から私は、詩を書くようになっておりまして、詩を2、3篇書きましたら、富山の詩人たちにえらい評価されまして、新聞に出たりしましたもので、その気になって詩人気取りでおふくろの店を手伝っておりました。やがて、おふくろと経営方針についてけんかになりまして、飛び出しまして自分で店をやりました。

 ところが、詩を書いておって店をやったものですから、お客さんというのは、詩人とか絵描きとか作家とかそんなのばかり来るようになり、いつも満員なんですけど、皆さんも気をつけられたらいいと思いますが、あんな店をやるときは、同じ客が毎日来ているような店はだめなんでございます。たまに来るやつ、少し飲んだやつは、きちんと現金を払って行くのですけど、毎日来ておるやつに限って、友達まで5、6人連れて来てがばがば飲んだやつに限って、一銭も払って行かんのです。

しかも、駆け出しの絵描きとかそういうのばっかりでしょう。もう1年経っても、6ヵ月経っても払わない。それで、たまに催促すると、絵を1枚持ってきたりして、絵をもらったって酒屋へ払えるわけないんですから、どんどんどんどんと、累積赤字ばかりたまっていくんですよ。

説を書いてみるかなと思い、戦後10年間一度も働かないで蔵小説を 書いてみるかなと思い、戦後10年間一度も働かないで蔵のものを全部売って、仏壇まで売ったじいちゃんことを淡々と書いて、吉村さんのところへ送りました。送りました。2ヵ月経っても3ヵ月経っても、返事も来ないので、ゴミ箱に捨てられたなと思って諦めておりました。ところが、5ヵ月ぐらい経ったときに、1冊の本が送られて来ました。

 それは「文学者」という本でした。次を見て、びっくりしました。私が生れて初めて書いた小説が載っているわけですね。そこにいっぺん東京に出て来いと書いてありましたので、勇んで出て行きました。その本を出しておられたのは、丹羽文雄という作家で、それは戦後、若手の作家を育てるために、丹羽先生が自費で出しておられた同人雑誌でした。そこに、私の初めて書いた小説が載ったわけです。

  そこで、作家になるとは思わなかったが、自分の体験を書いて送った。よく書けているということで、雑誌の掲載された。http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/138.html

http://www1.tcnet.ne.jp/selgey/horizon/at000007/at000007.htm

  これならちょろい、と二作目を書いて送った。ところが、作家になると決めたころ、みんなの酒場になっていた店が倒産した。今までニコニコしていた酒屋のオヤジが暴食団のようになって借金を取り立てる。送った二作目は、ちょっと色気を出して書いたものだから、さんざんだった。

  結婚して子供ができて、借金に追われて引っ越した先のボロアパートで、子供のミルク代でケンカしているとき、女房の投げつけた新聞の間から落ちた求人広告が「納棺夫」募集をしていたわけだ。

 女房が投げつけた新聞が顔に当たった。新聞からぽろっと下に落ちたとき、なぜかしら求人欄が目に入った。「新生活互助会社員募集」と書いてある。何の会社か分からない。冠婚葬祭と書いてあったら、大体仕事の内容はわかりますものね。しかし、新生活って書いてある。新生活互助会社員募集と書いてある。何の会社か分からない。しかも住所を見たら、アパートのすぐ側なんですよ。そんな会社あったかなと思うような、住所なんですね。

履歴書を出しましたら、「君も倒産したのか。俺も倒産した。一緒にやってくれんかなあ」と言って、「住所、君すぐ側に住んでいるじゃないか。いやあ、君、ぜひ来てくれんか」と言われ、次の日からのこの会社へ行くようになったわけです。

満足して仕事をしていたわけではない。むしろ辞めたいといつも思っていたくらいだ。それでも、子供を育てるには、小説家になって筆一本で食えるなら、いいが、そうもいかない。葬儀社勤務の生活が続いた。そこへしばらく会っていなかったおじがきた。

突如分家のおじが現れ、倒産してからもうぜんぜん行き来もしていなかったのですけど、それが突如現れて、「きのう東京のおばさんから全部集まって法事があった。その法事の終わりに、お前の話が出た。恥ずかしい、恥ずかしい。お前、死体を拭いて歩くらしいじゃないか。そのおじというのは、私が大学に入るときに、田んぼを売って学費まで作ってくれ、そして、少年時代から父代わりのように育ててくれたおじなのです。東京の大学、早稲田に入ったときに、戦後村で東京の大学に入ったのは、私が初めてなんです。村中に、親戚のホープぐらいに私のことを言って歩く。そして、斜陽の家を建て直すぐらいに思っていた。しかし、私はこうやって死体を拭く仕事をしているわけだ。

ちょうどそのころ、吉村さんから手紙が来まして、実は、丹羽先生が体を害されまして、「文学者」が廃刊になり、なくなっちゃったんです。私、それまでに書いていたふたつほどの作品をすぐに送りました。送ったらすぐ、折り返しすぐに手紙が来て、この間の初めての作品は将来性があると思って載せてあげたけど、今の2作はもう読むに堪えない、恥ずかしいくらいだと書いてある。人間て、早く有名になろうとか、いい文章を書こうとか、かっこよく書こうとかしたがるときは、ろくなこと書いてないのですよ。本人は一所懸命やっているのですけど、でもね、そういう発想で書いているやつは、大体動機がよくない。ろくなことを書いていない。それは見抜かれる。

そうなると、作家になるのもイヤになってきた。きょうも納棺夫の仕事をしてきた。ある日、女房がそれを感じたのか、私に前々から言おうと思っていたのかもしれないけれど、「あなた、そういう仕事をしているのか」と言って、夜中に、若かったですから、たまにいいだろうと思って、女房の布団に近づこうとしましたら、「子供が小学校に上がったら、お父さんは納棺夫とは職業欄に書けない」妻が泣き出した。自分でもそうだな、と思い続けていた。

これから、納棺の仕事をするうちに、感謝されている仕事と気づき、より懸命に作業そするようになり、服装も医師と同じ白衣を着るようにうになった。今までは不浄の作業で客としては扱われていなかったのに、あるおばあちゃんの納棺を済ませて、手を洗って戻ってくると、座布団が敷いてあって、茶菓が出されてあった。そのとき、目が覚めたように、この職業についてのこだわりが消えたときだった。

昔付き合っていた彼女のお父さんの納棺をした。そのとき、彼女が私の額の汗を拭ってくれた。

その次に、私を罵倒して別れた叔父が死に直面している病院へ見舞いに行った。私は叔父に怒鳴られるかと思っていた。見舞いに甥が来てくれたと知ると、叔父は柔和な顔で「ありがとう」と言ってくれた。叱られると思っていたのに、この優しさはなんだろう。

考えてみると、死者の顔は、いかつい顔も、苦しんで死んだ顔も、みんな柔和な顔にもどる。静かに微笑んでいるように見える。(以下は購入してお読みください

33302269_1_1 私が青春を生きた時代は、生に絶対の価値を置く科学的唯物思想が主流をなしていて、宗教などは麻薬か何かのようにみなされ、非科学的なうさんくさいものとされていた。
 だから私もそんな時代の潮流に翻弄されながら、挫折と失意の中で父母を恨み社会を憎み、心に深い闇を抱えて反抗的な青春を送っていた。
 そんな私が生死を問うようになり、宗教(特に仏教)に関心を抱くようになったのは、挫折を繰り返した果てに、ひょんなことから葬儀社へ勤め死者をお棺に納める納棺の仕事を専門にするようになってしばらくしてのことだった。

当時(昭和40年代)納棺の仕事を始めたとたん、世間から白い眼で見られるようになり、親戚などから「親族の恥」と罵倒され、絶交された。私は伯父や叔母たちの異常とも思える剣幕 に戸惑い、人々の死に対する恐れや嫌悪感に驚いた。そんな世間の白い眼を気にしながら、悶々と納棺の仕事を続けていた。

しかし、やがて死体に毎日接しているうちに死者の顔が安らかで美しいと思えるようになっていた。それは分別差別のない世界のように思えた。この美しい世界こそが真実の世界ではないのかと思った。そう実感すると、この宇宙には、生死一如の霊性的(仏性的)な世界と、人間の知性と感性で死を隠蔽して構築された生のみの虚仮の世界との二つの世界があるような気がした。

一般の人は後者に生きているようである。後者のスタンスに立てば、「何のために生きるのか」が 必要とされるだろうが、生死一如のいのちとひかりの世界にあっては、その問いそのものが無意味となり、善悪に関しても「念仏にまさるべき善なきゆへに」と、答えは実に簡潔明瞭となる。

おくりびと 青木新門原作との比較 青木新門 納棺夫日記2

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